あおいそら


 空がとても青い朝でした。太陽がおおいばりで地面を照らしています。黒い地面からゆらゆら立ち上る水蒸気を、ソランはじっと見ていました。
 ソランはこの春から小学生です。けれども、自分の名前を言うことができません。
 少し前のことです。就学時健康診断というのがありました。順番に机の前に坐って、頭の毛の薄い校長先生、眼鏡をかけて髪の毛が鳥の巣みたいな教頭先生の前で聞かれたのです。
「お名前なんていうのかな」
 何度聞かれても、ソランは答えたくなかったのです。初めは自分の名前を言うのが恥ずかしかったのですが、次には先生の顔がどんどん変わっていくのを驚いて見ているうちに、石みたいになってしまったのです。
 だから、学校なんか行かなくてもいいと思っているのです。
 ソランの住んでいる団地の駐車場のそばに、大きな柿の木がありました。ついこの間まで、柿の葉が赤く染まって、とてもきれいでした。今は、太い幹だけがおかしな具合に曲がりくねっています。柿の木の根元は、雨が降るといつも大きな水たまりができました。水たまりは濁った土色でした。それなのに、そこに映る空の色は不思議にすんだ色でした。揺れる木々の枝先は、優しい人の手のようでした。
 ソランは黄色い長靴をはき、水たまりの中に入りました。
 風が吹いてきて、小波がたちました。ソランは少し息苦しいような気分で、水たまりの景色を眺めました。
 なんだか本物の空よりずっと空らしい気がしたのです。水面がゆれて、木々がざわめき、白い家が見えました。白い家のとんがった屋根の下に、小さな窓がありました。窓は開いていました。レースのカーテンがゆれています。
 ソランはドキリとしました。カーテンの後ろに、誰かいるような気がしたからです。
 ソランは、大きく息を吸いながら、水たまりから目を離しました。そして、こんな小さな水たまりなのに、どうしてこんなにいっぱい、見えるのだろうと思いました。
 水の中の木の葉がざわめきました。ソランは昔遊んだオモチャにあったような、懐かしい気持ちがしました。
 すると、遠めがねを覗いたような具合で、小さい窓がグングンせまってきました。
 はじめ、白い猫がのぞいているのかと思いました。女の子でした。
「なあに、なんて言ってるの」
 女の子がなにか言ってるような気がします。一生懸命聞こうとするのですが、わからないのです。
 ふっと体がゆれたような気がしました。ソランは、あれっ、と思いました。なんだか消えそうな感じがしたのです。

                   ※

 ソランは屋根裏部屋の窓を開けて、空を見ていました。
 空はとてもあおくてステキでした。じっと見ていると、とても懐かしい気持になるのです。ソランはあおい空が大好きでした。
 ある時、ママに聞いたのです。
「ママ、空はどうしてあおいの?」
 ママは言ったのです。
「哀しいからでしょ」
「哀しいって、どういうこと?」
「知らなくていいことなのよ。遠い世界のことですもの」
 そういうとママは、いつまでも空を見ていると心まで汚れて青い目になりますよ、と言いました。ママの自慢は、とびきり白い目です。ママの顔は、時々降る粉雪のように真っ白です。髪は、白猫より白く、やわらかです。
 ソランは、ママのように真っ白ではありません。どちらかというと、少しピンクがかっています。
「ママ、どうしてそんなに真っ白なの」
「ここは汚れた物がないからよ。もっと白くなって、透き通るぐらいにならないと透明世界には行けないのよ」
「ママ、透明世界にいったら何も見えないね」
「……見えるってことは、恥ずかしいことだわ」
「どうして?」
「自分がありすぎるからよ」
 ソランには何だかよくわかりません。
「ママ、胸がいつも熱いような気がするの。体の中って、どんな色してるの」
 ママは驚いたような顔をしました。
「ソランは空を見すぎたんでしょう」
 ママは、白いテーブルの上に白パンとミルクをおきます。長いスカートのすそをひきずるようにして歩き、椅子に腰掛けて、いただきましょうと言います。
 ソランはママの顔をじっと見つめます。なぜかというと、ママがパンを口に入れる時、不思議な色が見えるからです。それは、あおい空を見る時のふんわりした気持と違って、ソランを恐いような気持にさせました。
 ママは、そんなソランを情けないような顔で眺めます。
「お願いだから、ママの自慢の白い目を汚さないで頂戴」
 ソランは、また聞きます。
「のどにね、パンがつかえてて落ちていかないの。そういうの、わだかまりって言うんでしょ。だからママ、聞いていい?」
「困った子ね。でも、そういうわだかまりはいけないわね」
「ママ、透明世界って、形はあるけど見えないっていうことなの。それとも、何にもないっていうことなの」
「ママを困らせないで頂戴」
「だって、わだかまりが……」
「ママだって行ってみなければわかりません。でもたぶん、何もないっていうことでしょうね」
「ふうん」
 レースのカーテンが、ゆらゆら揺れていました。
 ソランは、とてもたまらない気持になりました。わだかまりが胃袋のあたりにきて、あばれています。
「 ママ、どうしたらいいの!」
 ママが声を上げました。
「ソラン、あなた病気よ。目が少し青いわ」
                   ※
 昼すぎ、ひだまりの水は乾いていました。まだ少し湯気をたてながら、ひびわれた地面を覗かせていました。
 そしてソランの黄色い長靴がありました。

一九九〇年八月(えん八号 発表)