Avril 走る女


 暗い部屋のなかでテレビの画像が点滅していた。つわ子は腹ばいになってテレビを見ていた。私は少しほっとしたような気がしてテレビの画像を見た。モノクロの映画だった。私はつわ子の顔を見た。画面を見つめたままのつわ子の表情は石膏レリーフのように生彩がなく、止まったままの視線は映像の向こう側を見ているようだった。
 私はつわ子の肩に手をかけできるかぎり優しい口調で、もう寝た方がいいよ、と言った。つわ子は私に視線を向けると首をかしげるようにして、帰ったの、と言った。
 テレビのスィッチを切ると部屋は闇に包まれた。何もかもが闇の底に消えてしまったような気がしたが、すぐに窓硝子を通して月の光りが差しているのがわかった。
「窓を開けて」と、つわ子が言った。
 たてつけの悪い窓を開けると湿気を含んだ冷たい風が頬に当たった。
「雨の匂いがする」と、つわ子が言い。霧雨だよ、と言いながら黒い粒子のたちこめる窓の外を見ると、巨大な生きものが息を潜めている気がした。
 おお寒い、と言いながら布団の中にもぐりこむ私につわ子はひしとしがみついてきた。薄いTシャツを通してつわ子の体温を感じた。
 具合はどうなんだ、という私の言葉につわ子の目線が一瞬すわった。しまった、と思ってももう遅く、つわ子は睨むように私を見据え、アナタがわたしの体をめちゃくちゃにしたんじゃない、と言う声が聞こえてきそうな気がした。
 私はぎゅっと目を暝り、おれは最低の男なんだろうなと思いながらつわ子の体を抱き締めた。つわ子は上に着ていたTシャツを脱ぎ私の洋服を脱がせようとした。
 どうしたんだ、まだだめなんじゃないのか、という私の言葉に耳をかそうともせず、つわ子は熱い肌をすり寄せてきた。
         *       
 生理がないの。一月ほど前つわ子は私にそう言った。どうするの。どうするって、まだそうと決まったわけじゃないだろ。分かるわよ、自分の体だもの。つわ子は私の顔を見据えて言った。嫌よ。嫌よ、それだけでつわ子の言おうとしていることはわかった。つわ子とつわ子にくっついたまだ形のないものの重みが私の気持ちを圧迫した。
 私はどうなっているのか、またどうしていいのか分からなかった。男と女が交われば当然の結果なのだと頭のなかで分かってはいても子供というものには結びつかず、生命なんて簡単につくれるものなんだなとおかしいような気持ちにさえなった。
 私には生まれた時から欠落感があった。それは癒しようがないもので、そういう気質のせいか私はその日その日を過不足なく生きていければいい、と思っていた。そんな私には結婚も子供も不必要なものだった。ただ私もDNAに支配されたオスであり、女を抱いている時は不思議な安堵を得ることができた。
 つわ子が結婚とか出産とかをどれぐらい真剣に考えていたのかはわからない。ただつわ子は自分の体の中にできた生命を処分するのは嫌だ、と主張した。
 私は実際困ったことになったと思った。つわ子が子供を胎もうが生もうがそれに反対する気はないが、私はもともと生活人としての根本的な巣作りも巣を守る本能も欠落していた。営業マンといえば聞こえがいいが、形のないものを口先三寸で売っていた。給料は完全歩合制でいい時もあったのだが最近は自分の小遣いさえ不足していた。生活はつわ子のクラブ勤めの収入で賄っていた。マタニティクラブなるものがあるわけがない。いや極上のエロスを追求するためにあってもいいのではないかと馬鹿なことを思いつつ、あさましくも、つわ子の収入がなくなるだけでなく、妻子を養っていかなければならないのだと思うと、荒縄でがんじがらめに縛られるようだった。
 私はつわ子と顔を合わせているのが息苦しくなり、煙草を買ってくる、と言って部屋を出た。そして数日間友達の家を泊まり歩いた。
 二週間ほどして部屋に帰るとつわ子が布団をしいて寝ていた。つわ子は私の顔を見ると目を赤くした。
 どうしたんだ、と声をかける私に、
「わたし、中学生の時陸上のスプリンターだったの。体の血がさわぐと、走りたくなる。アナタが出ていった夜から、毎晩土手の上を走ったわ」
 と、言いながらつわ子は体をくの字にまるめ顔を歪めた。
 掛け布団を持ち上げてお腹に触ろうとすると、さわらないで、と激しく拒絶した。
 私は医者に行こう、と言い、みっともなくて病院なんか行けない、と言うつわ子の身仕度を手伝い、おぶって外に出た。夕刻の五時を少し回ったばかりなのに辺りは夜の闇で、いつもより交通量の少ない道路がただっ広く感じられた。ゆっくりと歩きながらタクシーをさがしたけれど、そういう時に限ってタクシーも通らず、私はつわ子をおぶったまま長い坂道を上り、つわ子が以前に行ったという産婦人科に行った。
         *
 病室で眠りから覚めたつわ子は唇を震わせて寒い寒い、と言い、体を起こして帰ろう、と言った。
 お金なら大丈夫だよ、と言う私の言葉に、つわ子は、そうじゃない、と言い、看護婦が私のこと侮辱するのよ、まるで汚いものでも見るみたいに。
 私はつわ子を抱き抱えるようにしてアパートの部屋につれて帰り、布団に寝かせた。つわ子は、罰があたった、罰があたった、としきりに言い、お金がなくても惨めとかちっとも思わなかったけれど、どうしてだろう血が流れて止まらなかった時ギネスブックに乗せられるぐらい惨めって思ったわ。そう言ってつわ子は目を閉じ、閉じた目尻から涙を溢れさせた。
 煙草を買ってくる、と言ったかどうかわからない、私はそういうつわ子を見ていること
ができなくて、昔からそうなのだが、切羽詰ったものを真正面から見ることができない性分なのだ。つわ子は、そういう私を見抜いていて、アナタの優しさの正体はエゴよ、アナタは自分が傷つきたくないだけなの、と辛辣な言葉をなげつけた。私はお金を作ることを口実につわ子の部屋を出た。
         *  
 ドアを開けたとたん、凄いボリュームの音楽が流れていた。ボックスの間をすりぬけるように通って座席に座ったら、マネージャーが、ご指名は? とか言い、友達は少しふんぞりかえるような格好でリンダとかマリアとか女の名前を言ったけれど、私は首をふってゾウでもキリンでも……と言った。五分もしないうちに超ミニの女の子が現われ友達の席に割り込み、私の膝の上を擦り抜けるようにして座り、バンビでーすと言った。それがつわ子との初対面だった。艶のあるボブヘアーに包まれた顔はひどく小さく見えた。睫にふれそうな前髪の下にラメ入りの紫のシャドウが塗られ、口紅は濃いローズ系の色だった。
 いらっしゃい、はじめて? というつわ子の顔を見て、私はどこかで会ったことがあるような気がした。つわ子はそんなに見るほど綺麗でもないでしょ、と言った。私は曖昧にうなずきながら、いや誰かに似ていると思って、と言うと、そう、だれかしら、とつわ子が言い、私は、ああ、と自分で納得すると、つわ子が、誰、誰に似てる、と言った。
 演歌歌手でいるだろ、日本人形みたいな顔をして無表情で歌うやつ、と言うとつわ子は、ああと頷き、たまに言われるけどあの女嫌いよ、と言うつわ子の顔から表情が消えて演歌歌手の顔にいっそう近づいて見えた。
 つわ子は、もらうわね、と言ってグラスにビールを注ぎ勢いよく飲んだ。白い首筋が蛇の腹のように動いた。つわ子は白地にラメ入りのドレスを着ていた。おおきくくられた胸元から青白いような谷間が見えた。
 私はその谷間に視線を奪われ、ふくよかな脹らみを見ていた。私はつい最近別れた女を思っていた。女はやせ形で胸も貧弱だったけれど、スラリと伸びた足や鋭角な体の線が理知的な女を思わせて好きだった。
 つわ子は「さわりたい」と言ったかと思うと私の腕を掴み、自分の胸に手を入れた。つわ子の胸は暖かくやわらかだった。つわ子は笑いながら「男って、いくつになってもお母さんが恋しいのね」と言った。
 私は店が終わってからつきあってくれ、とつわ子に言った。つわ子は、いいわ、と簡単に返事をしたが、私は半信半疑でつわ子を待った。
 店が終わる頃をみはからって、私はつわ子が出てくるのを待った。つわ子はジーンズにベージュのジャケットを着て現われた。私がつわ子の側に寄ると少し驚いた顔をして、本当に待ってたの、と言った。
 私はつわ子の住まいを聞きその沿線の駅で降りた。そこは私が学生時代に住んだ街で、昔何度か通った赤ちょうちんを思い出し、つわ子と一緒にその店へ行った。
 間口一間ほどの店は一杯で、それでもつめてもらって私とつわ子はカウンターの席に割り込んだ。こぼれおちるほど盛り上がった焼酎が受皿と一緒に置かれた。つわ子は驚きながらもコップの淵に口を付け焼酎を啜った。そして消毒用のアルコールってこんな味かもしれない、と言った。
 客が増えて居場所がなくなると、私とつわ子は椅子を持って外に出た。空がちっちゃい、もやってる、でもよく見ると東京でも星がみえるのね、とつわこは言った。紫立ちたる空がだんだん明るんでくるのを見ながら、つわこは笑いそしてバックからティッシュを出し鼻をかんだ。その紙をまるめると道路に投球した。
 捨てられたのよ、こうやって。誰もティッシュペーパーの気持ちなんかわかりっこない。
 私はつわ子の横顔を見ながら、ふーんと曖昧に返事をした。
 女ってどんなめにあっても男に愛されたんだって信じたいのよね。
 つわ子は顔をぐしゃぐしゃにして、わたし孤独恐怖症なの、一人でいるのが恐くてしょうがない、と言った。
 懲りないね、どうしてアンタについてきたと思う。アンタの目が手負いの獣みたいだったから。
 空の端から太陽の輝きが見えはじめる頃、私はつわ子のアパートに行った。
 越してきたばかりだというつわ子の部屋は家具もなく、白い壁にとりかこまれていた。
 窓を開けると川が見えた。夏も終わった季節で薄日を浴びたヨシの原が風にうねり黄金の小波がたっていた。
 私とつわ子はひとつしかない布団で寝た。つわ子の体は熱を帯びているように暖かかった。
 熱があるんじゃないか、と言う私に、排卵日が近いのよ、排卵日には狂う女が多いんだって、とつわ子は言った。
「どうしてだと思う。こんなグロテスクな結合しなきゃ子供ができないなんて」
 私はおかしなことをいう女だと思って笑った。
「トンボはハートの形で交尾するのよ」
 私は動物園で見た熊の交尾を思い浮かべていた。
「むかしキスしたら子供ができるのかと思ってた」
 馬鹿な、と私は思っていた。キスをしただけで子供ができるんだったら私は何人子供を作ったことになる。
 一緒に住もう、とどっちが言ったのかは覚えていない。私は川のそばにある古いモルタル壁のアパートに越してきた。
 私とつわ子は瞬間瞬間満たされていればそれでよかった。いつ頃からだろう。つわ子は新婚ごっこを演じはじめた。
 足おれ式の小さなテーブル、茶わん、汁椀、箸、焦げた煮物や、焼き魚を並べ私の帰りを待つようになった。
 夕刻過ぎ仕事に出掛けるつわ子は、西日の当たる部屋の壁によりかかり、化粧を始めた。マネージャーがもう少し派手にしろって言うから、とブルーのシャドウを濃く塗り朱の口紅をはみ出すぐらいに塗った。
「西日ってうら淋しくて嫌い」
西日の当たる部屋でいつも母の帰るのを待っていたという話をした。私、中学生だった。西日の当たる部屋で母を待っていた。窓をあけると真っ赤に燃えた太陽が沈んでいくのが見えた。綺麗だと思った。日が沈むといっぺんで暗くなった。いつまで待っても母は帰って来なかった。後で、母は男と逃げたんだという噂を聞いた。
わたし、走るのが好きだったから、放課後一生懸命走った。いくらでも早く走れるような気がした。つわ子はそこで話を止めて、カーテン買おうよ。わたし西日って嫌いなの。
 つわ子は次に冷蔵庫が欲しいと言った。卵もマーガリンも保存できないし、冷たいビールも飲めない、こういうの人間の生活じゃないわ。
 つわ子は生活に固執しはじめ、その頃から私とつわ子の奔放な愛の日々が魔法がとかれたように暗く貧しい生活に一変した。私はつわ子に言った。オレたちの共同生活は自由で何者にもとらわれなかった。たとえ財布の中に百円玉一枚きりであろうと、オレたちは悩みもしなかった。なにも持っていなくても、けして惨めではなかった。それなのに、一つ一つとモノがふえていくうちにどうしてなのかオレたちはどんどん惨めになっていく。
 私は結婚ごっこは嫌いだ。私は生活そのものが嫌いだ。
         *    
 私はつわ子を抱きながら思っていた。つわ子のことは愛しいと思う。けれど私はつわ子に縛られたくない。けれど、手負いの獣のようにつわ子は痛々しく、狂暴に私に挑んでくる。つわ子は大きく目を開き言う。
 ねえ、電球の黄色い明かりってなんだか惨めな感じ。
 私は、そんなこと関係ないじゃないか、という言葉を飲み込む。
 ねえ、あの天井の染み、顔に見えない? 恐い顔。
 つわ子の不満は止まるところがない。しまいに、あたまを抱え込み、頭の中が散らかりすぎてて居場所がない、息苦しいから窓を開けて、と言う。
 つわ子は激しく私に抱き付き、もっと抱いてと言う。駄目だと言う私の言葉に耳をかそうとせず、お願い、どうにかなりそうだから抱いて、と言う。
 私の体に爪をたて、女って排卵するとカラッポになって気が狂うのよ。子宮の中をなにかで満たしたいんだわ。
 中学三年の時、川の土手を走っていて感じたの。何かどろっとしたものが流れているの。悔しくて悔しくてただ走った。母が男と逃げてから、女が嫌いになった。女なんかになりたくなかった。父にも話せなくて、ずっと川原で星を見ていた。父や近所の小母さんが捜しにきて、その時父が血だらけのわたしを見て嫌な顔をしたのを覚えている。それから私、走れなくなった。私の胸は脹らみ始め、腰やウエストにも脂肪がつきはじめ、風を切って走ることができなくなった。だから高校に行って走ることを止めた。
 つわ子は、くるりと私に背中を向けた。背中が小刻みに震えていた。そして泣いているのか笑っているのかわからないような声を上げた。
 私は自分のおぞましさに震えるようだった。そういう時は柔らかいつわ子の肌を抱き、安らかになれた。それは思えば母性に対する欠乏感だった。それなのに何億分の一の確立で生まれようとする命を塵でも捨てるように処分してしまった。つわ子の声が聞こえる。私は母に捨てられたけれど、私の子供は母に殺されたのよ。
 つわ子、どうしたらいいんだ。
 私はつわ子の背中に手をかけた。するとつわ子は私の手を払い退け、立ち上がった。月明かりに、つわ子の裸身が浮かびあがった。こころなしか下腹部がふくらんでいるような気がした。
 つわ子、と呼ぶ私の声とほぼ同時に、つわ子はひらりと窓枠を飛びこえた。
 私は、窓のそばにより、つわ子、と大きく叫んだ。
 私は、つわ子を追いかけた。
 つわ子は、土手に上り走って行った。すらりと伸びた足と、白くゆれるでん部が、闇のなかに吸いこまれていった。私は立ちどまって、つわ子の後姿を見ていた。
 それは森の暗い茂みの中を、生命のかぎり疾走する雌鹿のようだった。
2004年