午後の停車場

 午睡から醒めた後のように電車は気怠く動いていた。十両編成の車両は腸のように小刻みに震えながら、いく人かの乗客を落としていく。
 海岸線が見え始める。水を漲らせた大海は、驚くほどの水量を溢れさせることもない。けれど、私の一瞬の視界でとらえることができる日本海は、四角四面に切り取られた小さな海でしかない。大海も大空も、意識のなかで想像しているだけで、本当は、そんな大きな海も空も一時に目に収めたことはない。海もまた器に入れられた水なのだから、表面張力という現象がはたらくのだろうか。水平線はゆるい円弧の形で伸びている。水飛沫を浴びた子供に、どうして水は丸いのと聞かれて、表面張力よと答えたものの、どうして丸くなろうとするのだろうと思う。水という物質は不思議きわまりない。形がない。色もない。匂いだって、水そのものにはないのだろう。識別する個もなく、意識や感情、運動機能……と、私の知り得る生物概念には一切あてはまらない。見ることも触ることもできるのに、これほど正体の分からない不気味な存在はない。もしかしたら異空間のものに違いないと、ふと思ったりする。
 海岸線に迫った山肌を見る。林立した草木は色素も水分も抜かれ、それでも根を張っている。この場所は、都会の雑踏と同じ時を呼吸しているのだろうか。一軒二軒と忘れられたような民家が見える。その家に人が住んで生活をしているのだろうかと不思議でならない。少しだけ西の方に傾いだ太陽は赤みを帯びた光を降らせ、枯草の中に投げ出されていた農工具の金具がきらりと光る。数年前までは確かに何かの一部であったもの、真鍮のバケツ、荷車の車輪、そして場違いなように潰れた飲料水の缶やペットボトルが混じっている。
 電車はきしんだ音を立てて止まる。ATUMI、砂利敷きのホームの中央に白い表示板があり、黒字でくっきりと書かれている。『温海』ここは温泉地だから海も暖かいのだろうか。陽がまた少し西に傾いて、光を受け反射する海面がガラスの破片を散りばめたように見える。車両通過待ちにて少々停車いたします、というアナウンスがあり、初春の奇妙な明るさの中に放り出されたようだった。ぼんやりと外の景色を眺めると、無人のホームの中空に電車の窓が映っている。たぶんそこに光が集まって映写幕のようになったのだろう。その透明ガラス(スクリーン)の中には空と山、車両の中の座席や通路、まばらな人影までもが映し出されている。喩れば蜃気楼のように、現実でない場景を見ているのだと思いながらもとめどなく不思議の世界にひきずりこまれていく。
 光の窓の連なりは、停車場に漂う古くてゆったりした刻の中で、奇妙な明るさを湛えている。私は、どうしようもなく懐かしいものに出会ったような気がして、このまま時間が止まってくれればと思う。けれど、今私の網膜でとらえている光の連なりを捕まえることはできない。絵に描くことも、写真で撮ることも、ましてや言葉でつかみとろうなんて不可能に近い。私は、そのあるはずもない光の連なりを脳裏に収めようとした。形は、色は、感じは、すべて私の持っている感性では確かめるすべがなく、幻と同じで、触ることも記憶におさめて再現することもできない。
 周りの景色がゆっくりと動き始める。電車が発車してからも、真っすぐに走る光の連なりをひたすら視線で追った。あれはやはり、アノ空間にあいた窓で、アノ窓の中に広がる半透明な景色は、別の世界のものなのだ。さっきから人影が見えるのはわかっていたが、あれは自分のようでありながら、自分ではない。
 昨日の母の電話の声がよみがえる。
『なんともとぜねくてなー』
とぜねという哀調のこもった韻が、心にあいた空間に共鳴する。
『ああそうだ、ツルさんに来てもらえばいいなあと思ったりして』
ツルさんとは、三年前に亡くなった母の姉のことだ。
『あんまりあっけなく死んだもんで、時々生きているような気がして、ツルさんに来てもらえば、と思うなよ』
 私も伯母が死んだのを普段はすっかり忘れている。何かの拍子に、そうだ伯母は死んだんだと思うけれど、どうして伯母が死んだことを無理に納得しなければならないのかとも思う。死んだ本人でなければ、生きているか死んでいるかなど、さして重要なことではないような気さえする。生きている人でも、その人のことを思い浮かべないかぎり、自分の意識のうえでは死んでいる人と同じではないか。『とぜね』とはどういう語源なのだろう。「とぜ」が意味を持つ言葉で「ね」イコール「ない」で否定しているのだろうか。「とぜ」という文字が頭にへばりついて離れない。と、例の透明ガラスに映った顔が、とぜね顔をして私を見ている。
 電車が速度をあげる。束の間の西日を浴びながら、透明ガラスの連なりも軽やかに中空を飛ぶ。空にむらむらと黒雲が現われ、陽が陰ると、あの光の窓たちは一瞬にして消えてしまった。電車の窓からの景色は一転し、寒々とした畑が続き、海は黒く重いクジラの背中のように見え隠れする。
 ああこの停車場も私の中で死んでいた駅なのだ。けれど、砂利を敷いたホームも、ペンキの禿げた掲示板も、ずうっとそこにあったのだ。 〈とぜね=淋しい〉

一九九六年7月(二十一世紀文学五号 発表)