ぐっど・ばい


 平成九年が明けた。新年早々に訃報がはいり、一月五日が通夜だった。その日はシベリアから超特級の寒気団がおりてくるということで、朝から冷え込んでいた。昼を過ぎる頃から蜘の糸のような雨が落ちてきた。
 六時を少し回った頃に斎場の寺に着いた。門の外に傘をさした人の列がはみ出していた。列の後尾について門の中を覗き込むと、斎場の入り口までテントが張られていた。暗い中空から落ちる雨が、蛇口からほとばしるように激しさをました。傘をつたって流れる雨がスカートの裾にまつわりつく。テントの中にどうにか身を寄せて、傘を畳み、スカートの裾をハンカチで拭いた。ふっと視線をずらすと、黒いズボンの足やストッキングの足だけが重なっていた。受け付けでコートとバックを預け、引き替えに番号札をもらい、記帳の列に並んだ。「ハイ、四列にお並びください」という甲高い声に違和感を覚えながら前の人の背中に重なった。ハンカチで肩や腕を拭きながら辺りを見回すと、所々に見知った顔があった。弔問客の列に話し声は少なく、代わりに身振り手振りでコミュニケーションしている人を見かけた。
『ぎゃてい ぎゃてい はらそう ぎゃてい ぼぢーそわか はんにゃしんきょう……』
 足踏みしながら、般若心経を心の中で輪唱し、やっと焼香台に立った。抹香を眉間に持ち上げ、N君の笑顔と向き会った。
 N君と最後に会ったのは昨年の十一月だった。彼は無音の侵入者だった。というのは、N君は耳が不自由なので、ドアをノックする習慣がなかった。入り口に背を向けてキーボードを叩いていた。暗灰色のディスプレイ画面に映る人影が、無機的で別の世界の住人のように見えた。振り向くと、笑顔のN君と向き会った。彼はいつでも笑っていた。オハヨウとかコンニチハとかいう言葉の代わりであるかのように笑顔のマスクを付けていた。そして車椅子をぐっと反らせ、クネクネと部屋の中を回った。彼のデモンストレーションだった。
 あら、久しぶり、どうしたの。仕事は?
 言葉が先に出て、申し訳程度に手を動かして手話表現をつける。N君の聴覚障害は中途障害で、口話の読取りが上手いので、下手な手話でも通じる。けれど発語の方は不明瞭で、N君の手の動きや表情を見ながら、自己流の翻訳でいい加減に読みとっていた。
 なに、痛いの? どこが? 背中? 腰? そう、大変ね。病院、病院行ってきたの? それで、その帰りなのね。
 N君の病気は筋肉が萎縮していく病気で、何度聞いても覚えられない病名だった。つい最近までは松葉杖で来ていたが、この頃は歩くことができなくなって車椅子を使っていた。それでもN君は毎日車を運転して、仕事に行っていた。
 痛そうに顔を歪めるN君に、家に帰って寝たほうがいいと思う、と手話表現すると、彼は、手と口を使って一生懸命に表現した。
 えっ、どうしたの? エレベーターの点検? エレベーターが使えない。
 あら、困ったわねえ。だからしばらくここで待ってるの。
 休憩タイムにコーヒーを入れて、お昼には、N君が好きだという納豆巻きを買って一緒に食べた。一時を過ぎた頃、もうエレベーター動いているんじゃない、とN君に言い、様子を見に行くことにした。N君のマンションは私の仕事場と百メートルと離れていなかった。狭いうえに点字ブロックのついたガタガタの歩道を車椅子で行くN君の後について行った。マンションの前で、N君はひょいと車椅子から路上におりた。あっけにとられて見ていると、マンションの入り口は四・五十センチの段差があった。
 N君は車椅子を持ち上げて段の上に置き、後向きになって、腕の力で一段二段とずりあがった。そして、車椅子をそばに引き寄せ、ブレーキをかけて固定し、ひょいと車椅子に坐った。N君は驚いている私に、照れたように笑いかけ、エレベーターを指差した。
 扉には、まだ点検中の札が下がっていた。N君に、家は何階なの? と聞くと、親指を折った残りの四本指を大きく広げた。
 そう、四階なの、困ったわねえ。
 奥の方を見ると階段が見えたが、いかにも急で、四階まではとても這い上がれそうもなかった。管理人さんは、と聞くとそばのドアを指差した。けれど、「彼 いつも 居ない 」と手話で表現し、苛立ちをかくすように車イスの車輪を強く回して、二三度回転した。
 困ったなあと思いながら、その気持ちを隠すように管理人室のドアを叩いて呼んでみたけれど、反応がなかった。私はN君に向かい、エレベーターが停まっている階に、私が階段で上って行って、交渉してくるからと、階段の方に行きかけると、ちょうどエレベーターが下りてきて止まった。ドアが開き、作業服の男が二人乗っていた。彼らに事情を説明して、N君を四階まで連れていってくれるように、頼んだ。
 一人で大丈夫でしょう。ちゃんと寝て、体良くしてね。さようなら。
 ドアが閉まるまで、彼は笑顔で手をふっていた。
 マンションの入り口を出て、立ち止まった。前方を見ると新しく建ったビルに挟まれた新しい道が繋がっていた。その道は真っすぐ、何の障害物もなく続いていた。朝の出勤に、この道を通っていた。ここだけがエアーポケットのように障害物のない空間があった。上の方を見ると空には違いないけれど、この道の視界の切れる灰色の、いえ色などないのだろうが、空間は空の続きなのだろうか。私には、何もない空間など、どうしても理解できなかった。もしかしたら、そこにはとても分厚い壁がふさがっているのかもしれないと思った。小学生の時に、建物のある風景画を描いて、上の方は空色に塗るけれど、建物と建物の間の空間の色がわからなくて悩んだことがあった。木を描いても人を描いても……埋めきれない空間がずっと自分の中にあった。
 都会は、そういう空間の少ない場所だった。忘れていたその空間に、真正面に向き合ってしまった気がして、途方もなくうろたえた。
 十一月末にしては暖かい日差しが照りつけていた。私は大きく息を吸い込み、今の記憶は全部クリアします、と指令を送った。N君と会ったのはそれが最後だった。
 通夜の席で、N君がメラノーマとかいう悪性の皮膚ガンで亡くなったことを聞いた。彼が入院したという話はどこからか伝え聞いていたが、たぶん筋萎縮性……とかいう病気のせいで、何度か入退院をくりかえしていることもあって、すぐにどうこうということはないと思っていた。入院した時には、一月持つかどうかという病状なので、N君には酷すぎて、病名も余命も告知しなかったということだった。だからN君は、退院してから車椅子バスケットを本格的にやるんだとか、いろいろと計画をたてていた。
 新聞で、ベトナムの枯れ葉剤の後遺症で障害児が今も生まれているという記事を読んだ。下半身がまひしている少年が片道一キロをよつんばいで学校に通っているという談話が載っていた。「休み休みだから、片道二、三時間もかかっちゃうんだ。でも勉強が好きだから……」少年にとっては、生きるためにごく自然な行動なのだろうと思い、それに対して感傷的になることが、逆に少年に対しての(N君に対しても)冒涜になるような気がした。
 N君は二十八歳だった。人は二度死ぬ、と何かで読んだ。N君の死は、N君のことを知っている最後の一人が亡くなった時に完成される。もうこれ以上は言わないことに。感傷的なのはN君に似合わないから、Nくん、ぐっど・ばい。
一九九七年九月(二十一世紀文学七号 発表)