此岸へ


 夕暮れ時だった。あたりに人の気配はなかった。闇の重みが少しずつまし、私は歩を早めた。道は川に沿って続いていた。ススキなのかヨシなのか長い影が揺れていた。私は歩き続けた。歩いても歩いても川は途切れることなく続いていた。私は向こう岸に行こうと思っていた。川に沿って歩いていれば、いつかは橋があるのではと思っていた。歩いても歩いても、向こう岸は鏡に映った世界のように手触りがなかった。時々その夢を見た。

「つたのさーん。つたのさーん」ポニーテールの白い首筋が老女の顔と交錯した。「はい、お口あけて、はい、ゴックン、ゴックンですよ」フリルの付いた白いエプロンの紐が背中で交差していた。ポニーテールとエプロンの蝶結びが揺れ、丸い形のいいお尻が立ち上がった。彼女の視線はいつも落ち着きがなく、あちらこちらに注がれる。そして私ではない方に視線をあずけながら、「ちょっと、ここお願いしますね。ゆっくりね、ゆっくり確認しながらやってください」と、弾むようにお尻を揺らしながら幕間に去っていく、ほんとうにそんな感じで彼女は消えた。
つたのさんという老女のそばにかがみこみ、消え入るような小さな声で「ツタノサン、ツタノサン、イキマスヨ」と、私は言った。「ゴックンデスヨ、ゴックンデスヨ」と言いカップをつたのさんの唇にふれた瞬間、つたのさんと眼があってしまった。しわしわの小さな顔の二つのくぼみ、白濁した眼球はさっきまでどこも見ていなかったのに、今は私を見ている。こんなに間近で見られて私はうろたえる。……マジで見ないでください。私の顔そんなに面白いんですか? つたのさんの顔が大きくなり両の目にスポットが当たる。目頭に黄色い目やにがついている。つたのさんの目の中に、ここにいる私ではない私がいる。匂いもぬくもりもない異空間に吸い込まれる気がして目をそむける。私は顔を上げあたりを見回す。舞台の上ではそれぞれがそれぞれの役を演じている。私は小さな声で「つたのさーん」と言い、つたのさんの口にカップをつけ、傾ける。つたのさんはゴホッゴホッと噎せる。つたのさん、意地悪ですよ。ちゃんと飲みましょうね。
花柄のエプロンを着けたグラマラスな彼女がやって来て、甘ったるい声で言う。「つたのさん、噎せてますよ。言われた事意外はやらないでくださいね」……今日は人がいないんですよ。ボランティアかなんかしらないけどボランティアのお世話してる暇ないんですから、何もしないで見ててくださいね。
私生活に不満がたまってるんだろうか、体全体がぷりぷりと揺れている。「はい、つたのさん、ごっくんですよ」つたのさんがまた噎せている。「つたのさんだめですよ、飲んでください。ほんと忙しいんだから、ちゃっちゃと飲んでよ」
私はつたのさんのそばを離れ、ホールの壁に寄りかかる。頭の中につたのさんのツルリとした顔と素面の視線がこびりついている。
男が私のそばを行ったり来たりする。男は私の前で止まる。背丈は私とほぼ同じくらい。男は耳が肩につくぐらい首を曲げ、ゆっくり弧をえがくように首をもたげる。濃い眉の下の大きい目が私を見る。何か言っている。口をほとんどあけないでぶつぶつ言い、通り過ぎてはまた戻ってくる。何を言ってるの? 男が何を言ってるのか知りたくて男の声に耳を近づける。
「ああないたうはえなおにあをいいうつえておるあんいだ なうにえおしあにいこうこえのおきあた わいたうしえをおわあらいいうにえきおたあのいかう こえこおにあまいとうもえなおもあのいはういえなおい わあたいしういえがおいあにいはう わえたおしあもいまうとえもおじあやいなういえふおりあをいしうてえいおる」
私と男を見ていた別の男が、私のそばに来て言う。かすれ声で聞き取れない。耳を近づける。
「あややはおかひい。やいつははかだ。かまもうなよ。あいつあいつはおかひい」
三日月顔に太い黒渕の眼鏡をかけた男は、言いながら身体が小刻みに震えている。
 あの男はおかしい、この男もおかしい。花柄エプロンの寮母だって白いフリルのエプロンの寮母だって妙に艶かしい……。
 私はホールの壁に背中をつけ、窓の方を見る。木々が激しく揺れ、ガラス窓にぶつかり流れ落ちる雨。テレビ画面でお天気キャスターが、台風並みの高気圧が接近していると報じている。ガラス戸一枚隔てた向こう側は嵐で、こちら側はまるで巨大獣の腹の中みたいにけだるい空気が満ち満ちている。
(どうしてここにいるのだろう。私の家は川の向こう岸にある。この嵐ではとうぶんここから出ることはできない……)
テーブルのそばの車椅子に、黙って座っている女がいる。草花模様のブラウスに茶色のベスト。グレーのズボンの膝の上でしっかり鞄を持っている。彼女が首をもたげ私に目配せする。私は彼女のそばに寄っていく。「あの、わたし、帰りたいんです。帰っちゃいけませんか」どこにですか、部屋にですか。「帰っちゃいけませんか。帰してください」彼女の言葉につられて車椅子の手を持ち、部屋はどこですかと聞く。「あーっ、ヨシノさん。だめですよ。お部屋掃除してますからはいれませんよ。ホールでお茶飲んでてください。ヨシノさん、わかりました」
ヨシノさんは花柄エプロンの寮母を指して「あの人意地悪なんです。いつもそうなんです。いつも意地悪なこと言うんです」「ヨシノさん。今お部屋のお掃除してるでしょ。まったくいくら言ってもわかんないんだからあ。わがまま言わないでくださいねえ」ヨシノさんは花柄の寮母に背を向けて「意地悪なんです、あの人意地悪するんです。わたし、家に帰りたいんです。ここにいたくないんです。だけど帰してくれないんです」お宅にどなたかいらっしゃるんですか。「夫が死んだんです。去年。夫が死んだら息子が帰って来たんです。頼んでもないのに、わたしの面倒がみれないからってここに連れて来たんです。わたし一人で生活できるんです。そう言っても誰も家に帰してくれないんです」
ヨシノさんは窓の外を眺めながら、わたしどうして帰れないんでしょうかと言う。「わたし、意気地なしで、夫が死んでから泣いてばかりいました。だから早く死んでしまいたいんです。でも意気地がないから死ぬこともできないんです」彼女は、田舎芝居の台詞をたどたどしく読み上げる。「ああ、早く夜になればいい。みんなの顔が見えないから、ひとりっきりになれるから」
 ヨシノさんの前に行儀良く座った人がにこやかな顔をして見ている。少し長めの散切り頭、クリーム色のシャツにグレーのズボン。男だろうか女だろうか、名札を見ると「ソイ」と書いてある。「寂しいこと言わないでください。楽しいお話しましょうよ。ネエ、ソイさん」ソイさんはにっこり笑って、左の手の甲を私に向け指先を下に向けて立てる。何だろう。なんの合図だろうと思うと、二度三度と同じ動作をする。ああ、同意しているのか、ソイさんは話ができないのだろう。ソイさんの隣の席に座った男がソイさんのお茶のカップを取る。ソイさんのにこやかな顔が険しくなり、ソイさんの手が何度もテーブルを叩く。
「だめ。だめ。あんたは自分とこで飲む。これはソイさん。あんたのはあっち」歩行器で身体を支えた女が、花柄のワンピースのすそを引きずりながら滑り込んだ。女の髪の毛は嵐の中を歩いてきたように掻き乱れている。
「ここはソイさんとヨソさん、あんたはあっち」女がソイさんのコップを男からとって返す。まったくまったく……とぶつぶつ呟き、テーブルに貼られた名前のシールを点検している。

 窓の外に視線を移すと、雨が小降りになり、日が差してきている。立ち上がり、ホールの壁の椅子に背筋を伸ばして座っている女の隣に座る。
「こんにちは、変なお天気ですね」「はい、こんにちは、今日はいいお天気ですね」しかたなく、そうですね、お天気になりそうですねと相槌をうつ。女は背筋をピンと伸ばし前方を向いたまま、「今日は何日ですかね」と言う。○月○日ですよ、と言うと「そうですか、○日ですか……」
女は背筋を伸ばしたまま、両の手はひざの上にきちんと重ねている。女の視線はどこを見てるのかわからない。長い間があって女は唐突に大きな声を絞り上げ、「娘がねえー、迎えにくるんですよ」と言う。前方をまっすぐ見据えたまま、身体中から声を絞り出すように、「娘がねえー、迎えにくるんですよ。娘が……さっきまでここにいたんですよ。ちょっと用足ししてくるっていってまだ帰って来ないんですよ。待ってるんです。娘が戻ってくるの」そうですかと相槌をうつ。
「いいお天気ですね。今日は何日でしたかね」おや、と思いながら○日ですよと言うと「そうですか、○日ですか……娘がね、迎えにくるんですよ。ご親切にありがとうございます。娘がまだ来ないんですよ。わたし、ここで待たせてもらっていいんでしょうか」はい、大丈夫ですよ。待っていて下さい。「どちらさまか存じませんが、ご親切にありがとうございます。でも、わたし、本当にここにいていいんでしょうか」いいんですよ。「そうですか。いいんでしょうかね。よかったあ。わたしいるところがないんですよ。わたしどこに行ったらいいかわからないんですよ。はやく娘が来ればいいのに、まだ迎えに来ないから待っているんですよ……」

 四時三十分、お先に失礼しますと、ロッカー室に行き、ボランティア日誌に終わりの時刻、ボランティアの内容を書いて施設を出た。
暗灰色の重たい空から水滴が一粒二粒落ちている。十字路まで歩いて立ち止まった。誰かに襟首をつかまれ身体が左右に揺れた。
すーっと鼻が通るみたいに正気が消えていき、おかしくて笑った。なにがおかしいのかわからないが、私はツタノさんの目を思い出していた。薄い膜が張ったツタノさんの目の中に私の目が映っていた。
背中から首筋あたりがゾクリとした。……私の後ろに面々と連なる気配が被さってくる。息を止めて踏ん張り……前方に歩き始めると、ああ、やっぱり川が流れている。川の淵は黒いもやもやとした気配に覆われている。向こう岸には私の帰るべき場所があるのだ。けれども、歩いても歩いてもここでない此岸に行くことができない。