人工内耳
              

 水面から差し込む淡い光が水底に揺れていた。頬や首筋、肩と冷たくやわらかくまといつく感触を押しわけるようにひたすら進む。ざらついたコンクリートの壁に指先をつけ、腿を胸に引きつけてから体をひねるようにして両足で壁を蹴る。水底に吸いこまれるように突き進むうち、手足をそぎ落とし、青く光る胴体だけになったような涼しさを覚える。
 もう何度目のターンをしたのかさえわからない。無意識といえる動作で、足を打ち、手を掻き、わずかに首を横に向けて呼吸をする。
 カラフルな水着の男や女が通り抜けていく。まるで小さな水槽に押しこめられた熱帯魚のように。
 伸ばした体を水の床に横たえながら、わたしはあることに思い当り愕然とする。地上での日常が、夢の中の出来ごとのようにぼやけている。今、泳いでいるということは確かに感じるけれど、それ以前の生活感覚はすべて曖昧で、しいていえば、一昨日、このプールで泳いだことだけが生々しく残っている。
 水の中での感覚だけが鮮明なのは、密度のうすい大気と違い、冷たく、やわらかく、そして重い、水の世界が居心地がいいからなのか……。
 魚のように泳ぎ続けるうちに、よけいなものが消えていき、しまいに肉体の感覚というのがなくなり、取りのこされた切れ切れの意識は、塩素入りの水に溶けこんでしまう。
 水面に浮きあがって息を吸う度、汗をかいたガラス窓や、交差する白い足を視覚で捕らえ……ひどく奇妙な気分になる。それはたぶん、水の中という異世界との境界を秒刻みで行ったり来たりしているせいかもしれない。そしてその危ういバランスのなかで、切れている調味料や返し忘れている本のことなどを思いうかべ……馬鹿げている、と自分を嘲笑う。すると、それまではあることさえ意識していなかった手足の重みを感じ、優しく体をとりまいていたはずの水が、重さを持ち、わたしを排除しようとする。わたしは仰向けになり、水の床に浮かび、天窓の四角い空を見る。無上に高い空に思いをはせながら、わたしは、切れ切れの日常のフィルムをつなぐ。
         *
 雪が降っていたよ、と集男は両手をひらひらと動かした。
 真っ白な、やわらかい雪が、僕の頭や、顔や、肩に落ちてきた。僕は、雪原にくっきりと靴跡を残しながら進んだ。
 立ち止まって空を見ると、太陽が橙色の光輪をつけて輝いていた。その時、僕の頬を暖かい風が通り抜けて、そして桃色の花びらが雨のように降ったんだ。驚いて辺りを見回すと、僕のそばに桜の大木があって、艶やかな女たちのように花びらがゆれていたんだ。
 わたしは、集男の口元をじっと見つめてうなずいていた。
 雪が降っているのに桜吹雪なんて、おかしいと思う? そうなんだ、夢なんだよ。でも、その時気がついたんだ。夢の中では音がないはずなんだ。けれど僕は、雪の降る音や風の音を確かに聞いたんだ。その時、美音子のことを思った。これが美音子の世界なんだなって。
 わたしの頭の片隅に、音を失う前の記憶が残っている。誰が弾いているのかわからないピアノの音。その音の記憶は、真っ青な空を見上げた時に感じる胸騒ぎに似ていた。わたしは映像化された音を、自分の胸の中に大事にしまいこんでいる。
 聴覚障害が先天的なものでなければ、手術によって音をとりもどすことができるんだ。
 (耳、手術、大丈夫。大丈夫)と、集男はくりかえし表現した。
 わたしは曖昧にうなずき、もし、手術をして音を聞くことができるようになったら、それがとても恐いことに思え、たとえれば、夜行性のコウモリが真昼にはなたれたような、あるいは、おたまじゃくしに手足が生え地面に一歩踏みだした時のような、不安と戸惑いを覚え、首を振った。
 どうして? わからないな。音が聞こえたらフツウの生活ができるじゃないか。どうしてそれが嫌なんだ。
 不通? 不通の生活?
 集男は紙を出し、ボールペンで、普通と書いた。
 あなたにとって音のある世界が、広く一般的なものであっても、わたしにはわからない別世界。
 わたしはゆっくりと口をあけ、ひとつひとつの音に力をこめて息を吐き出した。
(言葉は、音だけでない。形。とくに、わたしたちには)
 集男はわたしの首筋をやさしくつかみ、唇の動きを見ている。
 集男は私の唇を指先でなぞるようにする。
 わたしは、唇をかみしめながら、集男の唇を見る。集男の唇は赤くてふっくらしている。わたしは集男の唇に触れたい衝動にかられる。集男の唇は冷たくやわらかい。
 集男の抱擁からのがれ、自分はただ接吻したかっただけで、それ以上のことを望んだわけではない、と思い、それをどうやって集男に伝えたらいいのかと思う。
 集男の唇が動き、何かを言っている。わたしは、集男の唇の動きを読もうとしない。それは、わたしに対しての不満が、集男の表情を微妙に歪めているの見てしまったから……。わたしは、聞こえない集男の声に怯える。
 聞こえない声の恐怖とは、わたしがまだ音のある世界に住んでいたときの記憶。
 わたしの父と母は、仲のよい夫婦ではなかった。わたしの記憶の映像には、母を罵る父の声、震える音のひとつひとつが着色された絵文字のように鮮明に残っている。時々、そのばらばらになってしまったはずの声が、井戸の奥深くから聞こえてくるように、内耳のどこかを刺激する。
 母はいつも父に背中を見せ、耳をふさいでいた。
 幼い時の父の罵声の残像が、肉声に対して恐怖を覚えさせる。
 声とは、吐き出す息の振動の波で、それは生々しく、暴力的だ。たとえば「嫌い」でも「馬鹿」でも、その言葉を文字にすれば、やわらかく愛敬がある。
 集男は、書かれた言葉は生の感情がはいらない分だけ、乾いて平面的だと言う。だからわたしは、情感の乏しい乾燥質の女なんだと言う。
 わたしは、集男のまるっこい字が好きだ。集男の表情たっぷりの口話、おぼつかない手話が好きだ。だから、集男の肉声を聞きたいとは思わない。というより、集男の肉声を聞くことに恐怖を覚える。それは、集男の後姿、首から肩にかけての線が、父に似ていたから。集男の声は、父の声と同じ周波数かもしれないと思うと、わたしは集男の声を聞きたくないと思う。
         *
 何回目のターンをしたのだろう、ちらっと時計を見ると、三十分は泳いでいる。泳ぐほどに体が軽くなっていると思う。そして、わたしは自分が生きているという手応えをくりかえし感じている。
 水の中にいると、この世に音が存在するか否かさえ、疑わしくなる。空気のない場所では、音を伝えることはできない。
 水の中に住んで、日常生活を再現しようとしたら、どうなるのだろう。だいたい布団をしいて寝るということが滑稽だ。食事を作るために火をおこし、調理し、顔を洗い化粧をし……と考えながら、もし進化の過程で陸に上がることがなかったら、人はもっとシンプルな生活をしていたに違いないと思う。
 集男の唇がゆっくり動いている。
 僕は美音子の耳が不自由なことなど、なんとも思わない。本当だよ。と、集男は念をおして続ける。僕の父や母や親戚のものが、心配すると思うんだ。たとえばだよ、朝、目覚まし時計の音も聞けないのに、どうやって旦那様を起こすんだろう、とか、お客さんが来て、玄関のチャイムを鳴らしても分からないんじゃないだろうか、とか、もっと大変なのは、子供が生まれたら、どうやって育てるんだろうか……ということなんだ。赤ちゃんの言葉は泣き声だよ。赤ちゃんは筆談ができないだろう。
 集男はそう言って、少し笑った。
 医学の進歩は目覚ましい。今、中途失聴の人達はわりと音を取り戻せるんだ。だから、美音子も手術をしてほしい。そしたら、僕たちの結婚は何の障害もないんだ。
 集男は空書で手術という字を大きく書いた。
 わたしは、手術という字は嫌いだと思っている。手はいいとしても、術というのが、魔術や妖術のように怪しげでいやだし、まして自分の耳の(蝸牛)というところに電極を埋め込んで、音をモールス信号みたいに変換してしまうなんて、許せないような気がする。たとえば、集男が「美音子」と言うと、信号機はその音の波を、ツー・ツツ・ツッーとかいう信号音でキャッチし、それはたぶん、ツーが美でツツが音で、ツッーが子という感じで言葉に変換されていくんだろうと思って、それは集男が言う、「美音子」という本当の肉声を聞いたことにはならない。
 わたしは、わけのわからない信号音を毎日聞いて生活しなければいけないし、大昔に聞いたピアノの音、風のささやきや水の流れの音、鳥の声……すべてをモールス信号みたいに受信するだけではないのか。それならば、集男の唇の動きを読み、木の葉の揺れを見、水の流れの模様を見たほうが、素晴らしい音を目で触ることができる。耳がきこえなくとも、音楽は聞くことができる。たとえば、楽譜を見て、メロディを想像し、頭のなかで映像化することはできる。それに今は、音楽を体感できるボディーソニック装置をつけた椅子もある。
 違うんだよ。しばらく音から離れていた君には、そういう風にしか聞こえないかもしれないが、徐々に訓練して慣れてくると、犬の吠える声はワンワンと聞こえるし、猫はニャオニャオと聞こえるようになるんだ。確かに訓練は必要だろうけれど、君は七才のときのように音をとりもどすことができるんだ。
 少しだけ、手が重くなってきていた。時計を見るともう五十分は過ぎている。このまま一時間でも二時間でも泳ぎ続け、泳いでいることも忘れてしまいたいと思う。
         *
 体が揺れていると思った時、病院のベッドで意識を取り戻していた。初めは自分の心音かと思った。メトロノームが三個か四個も耳元に置いてあるような気がした。
 次に聞いたのは何の音だったのだろう。ノックもせず、挨拶もせず、ズケズケと様々な音が無遠慮に耳の中に飛び込んできた。
 わたしは恐ろしかった。見たくない物は目を閉じれば見なくてもいい。聞きたくない音はどうやって撃退すればいいのか。
 一つ二つ三つ、わたしは耳のなかに入ってくる音を数える。頭が混乱する。なんだろうこの音は、錐揉みで頭蓋をさすような高いトーン。わたしは耳を押さえ、布団を被る。
 助けて、助けて、どうにかして、この音達をどこかに連れてって。
 わたしの狂態はノイローゼと診断され、病室にとじこめられ、精神安定剤を打たれ、眠らされた。目が覚めると音が洪水のように押し寄せ、わたしはイヤーストッパーをつけ、ヘッドホンをつけ、狂気の境をうろうろしていた。
 集男が来て、何か言った。低い太い声だ。やはり父の声に似ている。男の声などみな同じなのかもしれない。集男のきれいな唇から、汚物が洩れるように声が出ている。目に見えるものなら、その音を一つ残らず捕まえて、捻りつぶしてやりたい。
 欲しいものなに?
 集男が言う。
 欲しいもの? 音のない世界。
 無理なこと言うなよ。
 ウオークマンが欲しい。
 集男が笑顔をみせる。
 どんな音楽がいいかな。
 音のないテープ。
 集男は頭をかかえて言う。
 音は、消しゴムで消すようなわけにはいかない。まっしろな音なんてあるのか。僕には無音の音など理解できない。
 ミネラルウォーターがある。純粋な天然水。音楽も無色透明なテープがあればいい。
 わたしは、目をこらす。わたしの耳にはいるな、と音のヤツをさがす。いったい、一度発生した音というヤツはどこに消えるのだろうか。どこか目に見えない三次元の狭間に吸いこまれ、そこは音の墓場で、無量の音たちがひしめきあっているのかもしれない、と想像しただけで、気が狂いそうになる。
 集男、お願い。一生のお願い。音のないところ、行きたい。
 集男は言った。
 よし、美音子のために防音装置のついた部屋を作ってやる。
 わたしは、防音壁と分厚い絨毯の窓一つない箱部屋の中で、集男が病院のセラピストからもらってきたという、胎児が聞く母親の胎内の音を聞いた。水の底からわきあがる泡のような音だった。
 集男がペットを飼ってみたらと言い、わたしは犬や猫は泣くから魚がいいと言った。終日、集男が持ってきた魚の水槽を眺めて生活した。わたしは魚の透明なヒレに見とれ、お腹のふくらみにエロチシズムを感じ……飽きずに魚を見続けた。ある日わたしは、魚はわたしを見ていないことに気がついた。
 集男とわたしは、その部屋で生活を始めた。集男の唇に触れるのが好きだった。優しく髪を撫でてもらい、集男の少し汗ばんだ肌の匂いを臭ぐのも好きだった。けれど、集男の息遺いや、衣擦の音が意地の悪い視線のようにまといつき、集男の発する(ミオコ)という声になぜか悪寒さえ覚え、集男とのセックスがひどく鄙猥な行為に思えてきた。
 魚はセックスしないのかな?
 魚? 魚は体外受精だから、卵にオスの精子をかけるんだろ。
 集男がわたしを愛撫している。わたしは、ガラスの水槽のなかの魚を見ている。違う、何かが違う、と呟きながら目を閉じ、集男の背中に手を回し、しがみつく。集男と一つになりたいと思う。……一瞬頭がひどく軽くなり、魂が身体から離れ、水の底に真っすぐ突き進んでいく感じがする。 
 何を考えていた。
 数十億年前の地球のこと。
 数十億年前の地球?
 ひとつだけ 生命が生まれた 瞬間のこと。
 集男はわたしを病院に入れることを考えている。わたしはそれでも構わない。
 ある日集男が、君はもしかしたら魚から進化してないのかもしれないと言い、泳ぎに行こうと言った。
 それから数ヶ月、わたしは週に五回は泳ぎに行った。泳ぎはじめて三十分を過ぎると、音が消える。そして、体の感覚が消え、しまいには、意識まで消えてしまう。
 何度もプールに通い泳いでいるうちに、わたしにはわかってきた。わたしと集男の住む世界が違うということが。
 分厚いガラス瓶の底のような水の天井を見ていると、奇妙で、それでいてひどく落ち着いた感じになる。まるで水槽のなかの魚のように、わたしの世界は重く、狭く、そこは、音も膨らみもない。わたしは、人には見えない透明硝子の水槽の中から集男の住んでいる世界を眺めているのかもしれない。
 そのことがわかったから、わたしはひたすら泳ぎ続ける。わたしという意識がなくなる時まで。ふやけて、とけて、ながれて……水の底には、わたしの耳のカケラだけが落ちているのかもしれない。