帰 休


 黄色地に黒の格子模様が入った丹前の黒天鵞絨の襟をきちんと合わせ、父は畳の上に仰向けに寝ていた。寝ていたという表現は違うのかもしれない。父の顔は生きているものとは明らかに違って、抽象画の中に転がったトルソーのようだった。
 父のお通夜らしかった。黄八丈風の丹前姿の遺体は、かつての父の日常を思い浮かべると、自然に受け入れられた。晩酌の酔いが醒めると、父は寒い寒いと言いながら下着の上にその丹前を羽織り、草臥れた繻子の帯をぐるぐるとまいた。そして家族の集まる居間で、手の平を耳から頬のあたりに当てて横になり、そのうち高鼾をたてるのだ。「寝床さ行って寝しゃれ」と母に言われても、父は動く気配をみせなかった。
 茶の間の端に置かれている父のことを無視して、母と、姉や弟、連れ合い、その子供までもが賑やかに話をしている。あの時あんたは……だった。どこそこの誰ちゃんが……だった。涙が出てくるぐらい懐かしい話が続いた。それぞれの過去の時間はそれぞれに違うのだけれど、三十年四十年昔の出来事がひとまとめに圧縮され、皆の脳裏に再現されていた。
 私は父のことが気になっていた。もしかしたら父が目を開ければいいと思っていたのかもしれない。後ろの方に首を向けると、行儀よく仰向けになっている父の顔がいやに生々しく見え、睫が震えているような気がした。「死んだふりなんかして」と思いつつ話の合間合間に父のことを盗み見、こんどは薄目を開けているかもしれないと視線を向けると、やはり父は薄目を開けていて、頭部はしっかり固定されたまま眼球の脹らみがおもしろいぐらい動いていた。父は乗じて大胆になり、はっきりと目を開け、目ん玉をぐるっと回して声のする方を見ようとしているのがわかった。私はなんだかおかしくて、隣の母を肘でこづき、父の方を見るように指差しても、母は無視をして、憑かれたように話し続けた。
 父が亡くなって初めて見た夢がおかしくて、私は夢の中で笑った。母に徹底的に無視され、うろうろと歩き廻っただけで、父は死ぬ前より疲れた顔をして、また横になった。それだけの話だった。
                *
 起き上がって食卓の椅子に坐りコーヒーを飲んだ。意識がまだらなままに、父が死んだ日のこと、その後の情景を辿っていた。
 北国の街の灯りは、早春の雪に塗れ、ぎくしゃくとして納まりが悪いようだった。その明滅が心にくいこんでくるのは何故なのかと思いを巡らせた。かたちのないモノたち、ということは意識など有り得るはずのないモノたちの情感が、街の灯りに紛れて命を燃やしているのではと思った。
 古びた店構えを押し潰すように林立するビルディング、街灯の連なる通りを何度か折れ曲がり、暗い空との境も曖昧な淋しい国道に出た。ひたすら直進する車のフロントガラスに映るのは、青地に白の道路案内標識と、轍が幾重にも交差した雪路だった。東側に迫る山肌、対する側の日本海は、闇の奥深く獲物を狙う巨獣のように息を潜めていた。
 闇の彼方からほとばしる雪は、四囲の音という音を吸音し、「しーん」という吹き出し文字をイメージさせた。静寂に浸り、出す言葉も身体のうちになく、雪の白い斜線が街灯に照らされ煌めく様に見惚れ、これは遠い宇宙から降る光の波ではないだろうかと、四、五時間前にいた都会の駅の雑踏が嘘のように、深い虚の時間に追い込まれていった。
 小一時間ほどして車は市街地に入り、何度かまた折れ曲がった。ああ家が近付いてきていると思い、雪景色の中に視線を走らせると、毒々しい花輪でおおわれた家が見え、ちょうど玄関口に立った電柱から照らされる橙の灯りを浴び、場末の劇場のように見えた。
 いったい何があったんだろう。こんな粗末な家を虚飾の花輪で飾りたてて、家が戸惑っているではないか。ほんとうに、不似合いで不具合で、私は自分の中のバランスがとれなくて、ほとんど笑いだしたくなっていた。
 芝居は幕間もなく、どんどん進行した。家に入ると、座敷には黒服を着た人が数人、座卓を囲んで酒を飲んでいた。居間に行って荷物を置き、もう一度座敷に行くと黒服の人たちが「まんず、まんず」と曖昧なお悔やみ言葉の余韻を引きづり帰るところだった。
 仏壇の前にきらびやかな緞子におおわれた棺があって、そこに母や、姉や、弟がいて、四角い覗き窓の中に納まった父の顔を見せられた。それから、母と姉弟、その連れ合いなどと、だれが父と夜をあかすかという話になり、「オレが見てるよ、親父と一晩語りあかしたいんだよ、なあオヤジ」と、豪語した弟は早々と酔いつぶれてしまった。
                *
 そうそう……と思い浮かぶ情景をつなげていって、ここからがどうしても夢の続きが入ってくるのだ。
 弟が酔いつぶれた後、私と母が起きていた。なにか気配のようなものを感じて、横をみると、父が薄目をあけている。「なに、薄目なんかあけて、気色わるいわね」私はそう呟いた。父は嬉しくてしょうがないのかもしれない。こんなに子供や連れあい、孫まで全員そろったのは初めてのことなのだから。自分も仲間に入って一杯やりたいのだけれど、自分のことを皆が無視しているから、どうしていいかわからない。
 私はそんな父に、気づいていいのか、無視したほうがいいのか、と思いながらまた父の方を見ると、やはり薄目をあけている。ああ、やっぱりと思い、母の方を見ると、一人でぶつぶつ話している。「いがった、いがった、苦しまないで逝ってくれて、いがった」
 私は父の臨終に立ちあっていなかった。姉は、父の容体がおかしいと医者を呼び、身内に連絡を入れている間に息を引き取った、と私に語った。母は、父が末期癌と宣告されてから情緒不安になり、父の病室の二つ上の階にある精神科病棟に入院していた。早朝、母が看護婦に呼ばれて病室に行くと、父は熟睡しているように見え、ベッドのそばに行くと、父は大きい息を長めに吐き、それっきりだったと言う。
「どこで死んだもんだべがなー」母はそれが納得いかないらしく、あてどない視線をさまよわせて言った。
 私は母をこづいて、父の方を指さすけれど、母は無視して話し続け、無視された父は大胆に、目をぱちぱちやり、そして一瞬目を開ける。私は母に、父を見るように言うが、母は知ってか知らずか、無視をし続ける。そのうち父ははっきりと目を開け、きょろきょろと辺りを伺う。私は我慢仕切れず、母に、父が目を開けていると言ったが、母は頑なに無視をする。そのうち父は身体を起し、「おい、おい」と言う。母はそれでも絶対認めないというように父を無視し続ける。
 知らぬ間に父は立ち上がり、そこらにある食物を持ち、手酌で酒を飲み始める。首をかしげながら青い顔をして、話し始める。
 高所恐怖症の父は、海外旅行の話があっても断っていたが、とうとう招待を断りきれないで、よりによって「地球周遊の旅」という企画で、宇宙ロケットに乗ったと言う。ああ、以前に聞いた話だと思いながら聞いている。ロケットが軌道に乗り、地球をぐるぐる廻りはじめた。「どうだったって。ロケットに酔ってしまたなが、なんともおがしげな感じで、おかしげな空間さ、まあるい地球儀が浮いてるなだ。したら、どごがの国がら、シュウシュウ……花火があがたと思たら、あっちでもこっちでもシュウシュウて。ああ、きれいなもんだな、て見でたら、たまげた」
 地球が見事なぐらい大爆発したと言い、
「はあ、なんとも困てしまた。ロケットが降りる場所がねぇ。なんとしたらえなだ」
 父はあの時も、困ったという顔をして、何度も首をかしげた。
 そうなのかもしれない。父の魂は降りるべき身体を失ってしまったのだ。
 父は一升びんを抱えて酒を飲み、前屈みな上体を揺らし荒い息をした。母は父に背を向けたまま上目使いで、「死んでるくせに飲みすぎるがら身体がせつないべ。とっとと自分の場所で死んでらっしゃれ」と言った。
 死んだ人の身体を心配するのも、こごとをいうのもおかしい、と思いながら、見ていると、父は母に散々悪態をつかれ、気持ち悪げに胸を押さえ横になった。ふうっふうっと苦しそうな息遺いがぷっつりと切れ、そのあとは蝋人形のようなつるりとした顔になった。
 死んだ父が目を開けて母を探し、生きている母が父を見ようとしない有様をおかしいと思い返しながら、父はやはり、家に帰り、母にしかられながら永遠の休みにつきたかったのだろうと、思いあたった。