奇妙に白い空


 水の中にいる夢をよく見る。うすぼんやりとした光の中で、体が浮いている。いや、浮いているのとは少し違うのかもしれない。包まれているという感じだ。それがなんともいえず心が落ち着いて、水の一部になったような気さえする。ぼんやりと自分を感じはしても、はっきりした感情はなく、体の重みを感じない。
 暖かい瞼の裏側を感じる。目を閉じていて、見えるものは、死後の世界なのかもしれない。瞼を持ち上げては閉じ、また持ち上げては閉じる。白い雪の結晶が飛び交う。午睡の後の赤ん坊の満ち足りた表情に似ていると思う。
 絨毯の上に、黄金色の光にかたどられた窓枠が映り、くすんだ壁には虹が揺れている。起き上がろうとすると、眩暈がする。頭の中を黒い影が全速で走っていくような、およそ時間という単位で測れないほどの瞬時の切れ目。耳の中にある平衡器官がおかしい。上下左右の感覚がつかめない。
 体の力を抜き、再びまどろむと、夢の感覚が戻ってくる。
 光のない世界だった。たぶん水の中に落ちていく感覚。その恐怖が、もう逃れようもないものと覚ったら、何かが変わってしまった。世界が反転した。なにもかもがないものになり、うすぼんやりした意識と、揺れる藻のように奇妙に浮いた世界。
 時が刻まれ、自分の輪郭を感じはじめると、掛け声をかけ起き上がる。時々は、小声でぶつぶつ呟きながら。どこかでなにかが狂ってしまった。知らない間に、生きものの遺伝子にまじりあってしまった。誰が見たって人の形をしているのに、人とは肌合いが合わない、そのうえ、人であることを忘れて、饒舌な女や片意地な男を、別な生き物を見るような視線で観察する。
 形は人でも、本当はわたし、人ではありませんと言うのもおかしいから、黙っている。黙ってい続けると、だれも人であることを疑わない。自然体で、人を演じ、時々は人マネをしている自分を忘れてしまう。
 町では、魔女おばさん、か、気違いオバタリアン。いつも黒い服を着て、黒いショールをまとっている。
 若い時は好きだった太陽が、今は少し強烈すぎて、体を覆い、顔を覆い、外に出る。春先の日の光は、どうしてこんなに眩しいのだろう? もしかして、植物たちを目覚めさせる特殊な光周波があるのかもしれない。春の光は、物憂く、艶めかしいものを体の中にざわめかせる。生きものは、ひたすら淋しさに似た感情を覚え、それを埋めようとする。
 二年ほど前、町に流れてきた風変わりな男を、家に入れてしまった。
 細身で長身の男は、無口で、ヤクザ映画のヒーローのようだった。しがみつかない生き方はいっしょでも、男はやはり動物的であり、女は植物的だった。
 女は、夜毎、体にかぶさる男の、その肌の温もりと匂いが、まるで爬虫類のようだと思い、五感のいくつかを塞ぎ、なるがままに任せていたけれど、そのうち男を避けるようになった。男はそれでも出ていく気配はなく、ときどき女の家をあけては、食わせてもらっているわけじゃない、と、お金を持って帰って来た。
 出て行って、と露骨にも言えず、どうしてここにいるの? と聞くと、出て行ってほしいのか、と女を見、そっぽを向いて、居心地がいいからよ。お前はおかしな女だ。いや、女じゃない、人じゃない。じゃあなんですか、と聞くと、めんどくさそうに、なんだかわからねえ、他の女みてえにうっとおしくねえ。そうだ、床の間の置物みてえなものよ。男はそう言いながら、飯を作れと言う。
 置物が飯を作るんですか、と呟きながら、男の好物の肉に触るのも気味悪く、目をそらしながら切れない包丁を動かす。
 本当に置物だなあ、お前、昔、金持ちのお嬢さんだっていうじゃねえか。本当だな、料理も作ったことがねえんだろう。俺が教えてやらあ。
 作るも作らないも、食べることが好きじゃないもの。そう思いながら、なぜか、食べることとセックスが似ているような気がして、ぞくりと悪寒のようなものを覚える。肉を食べる男と、女に覆い被さる男が交錯する。
 そんなに見るんじゃねえ。男に言われてどぎまぎし、あのー、肉の味は、肉の味がするんでしょうね。
 馬鹿なことを言ってらあ。大根の味がする肉っていうのが最近じゃあるのか。
 あのー、肉の味って、どんな味がするのでしょう。
 男は腹を抱えて笑い出し、お前、肉を食ったことがねえのか、気の毒によー。それでか、お前は獣の匂いがしねえんだなあ。食ってみろ、食わなきゃわかんねえ。
 男は、ぬるりとしたものを口の中に押し込んだ。油の固まりを飲み込んだような気がして、胃袋が裏返るような勢いで吐いた。吐いても吐いても、嘔吐が続き、まるで細胞全体が、それをうけいれるのを拒否していた。
 それ以来、肉や生魚、男の咀嚼する口元を見ているだけで気持が悪くなり、しいて食べている卵さえ、変に生臭い味がして、食べようとする前に吐き気を覚えた。
 男は、もしかしたらと言い、まさかと思い当ると、やはり子供を胎んでいた。
 男は女から逃げもせず、日雇いの仕事に行く。夜は酒を飲み、一人ごとを言う。
 お前のこと、町の連中どう言ってるか知っているか。
 男は笑い、お前は、皮膚病か全身焼けどで肌を出さないんだとよ。
 男はいっそう笑い、皮膚病か焼けど……お前は指の先まで白くて柔かい。
 どこかの国にあったろう。女がさ、黒い布をまき着けているのが。お前もそういうヤツを信心してるのか。
 そんなことは、どうでもいいこった。男はそう呟いて、酒を飲む。女は、チラリと男の目を見る。男の目は、何も見ていない。男は、まれに魂が抜け出たような瞳を向ける。
 女は、そんな男の一瞬の表情に心を許したのかもしれない、と思う。
 女は、ぼんやりと空を見上げる。曇り空だ。女は曇った空を見ると体の中がざわざわと騒ぎ、落ち着かなくなる。
 朝に起きて、夕に寝る。女は日々の積み重ねの中に、紛れ込む苛立ちのようなものを覚える。確かに、自分の体が変化していると思う。だからといって、どうにかしようと思うことも面倒だった。
 大昔の無声映画のように、ノイズの入った映像が頭の中に流れ、女はなんとも不思議な気持で、ただお腹のまるみを眺め続け……植物人間の体内に寄生する、種を育てているようなものだと思いながら、黙々と、ただ生理現象にしたがい……食べるものは、酢味のあるものと、体の中の生臭い味を消したいと思うのか、ハッカ味のガムを噛んだ。
 男は、日増しに陽気になり、日雇いの仕事でお金を持ってきて、しらぬまに夫婦ごっこ。女は昔、お金に不自由したことがなかったが、父が死に兄に実権が渡った今は、やっと食べれるだけのお金と、古い離れ屋を使わせてもらっているだけだった。
 百坪ほどの敷地の後ろに建ったコの字型の家は、玄関の高い上がり框の障子戸を開けると、八畳の座敷があり、その襖を開けると、一間の廊下が左に伸び、突き当たりがまた八畳の座敷で、廊下が右に折れて、左に手洗い、右にお勝手と板の間の部屋がある。女は、板の間にある古ぼけた肘掛椅子に終日坐り、中庭を眺めている。父が生きていた頃は、このあたりの土地はみな自分の家のものだった。時代のせいなのか、兄の腑甲斐なさからか、いまは回りじゅうがよそのものになってしまった。
 区画整理とやらで、家の前を大きな道路が通り、繁華街ができ、隣の小さな店までビルになり、女の敷地だけが取り残されたように、わずかばかりの畑を作っている。
 以前は、不動産屋がひっきりなしに土地を売ってくれと来ていたが、ヤクザ擬いの男が居着いたせいか、最近はそれもぷっつりと来なくなった。
 体の重みがまし、ごろごろ寝てばかりいて、自分という感覚がますます遠退いて、ただぼんやりと時を過ごす。もしかして、お腹の中でおたまじゃくしのような、尾っぽのついたそのままが、大きくなり、出てくるのではないか……。自分の体の中で、自分と同じ形をした生き物が育ち、出てくるという現実がどうしても信じられないと、女は思う。
 女は、それが体の外に出る日を、冬眠から覚める日を待つ動物のように待っていた。
 寒さが増し、日雇いの仕事がなくなると、男は都会に出稼ぎに行った。

 ある寒い朝のこと、突然腰から抜けるような痛みが走り、魚が跳ねるようにのたうち回り、そしてなにかが滑り落ちた。
 体がすっきりと軽くなったと思う間もなく、脱皮したあとの脱け殻のような感じで、心細く、頼りなく、父が死んだ時でさえ、こんな欠落感は味わわなかったと思う。体の中に、ほっかりと空洞があき、それはあの真白い空のように、たとえようもない虚しさだった。
 そのまま眠り続け、気がついたら辺りは薄暗く、体が思うように動かない。首だけを動かして、足元を見ると、まるまった固まりがある。
 女はとたんに吐き気を覚え、涙を流しながら吐くが、出てくるものはすっぱい胃液だけだった。
 女は、生まれ出た子供の輪郭を見て震え……震えが止まらぬまま、薄暗い空間を見つめ続け、ふいに突き上げられるような悲しみがこみ上げ、声も出さず、体中を絞り上げるようにして泣いた。
 泣きながら、女はなぜか、泣くことの心地よさに浸っているような気がし、それがいやらしく思えて、途方にくれる。
 薄闇のなかで、止まったような時を見つめ続け、少し明るみはじめたのを機に、身体を起こし、膝掛でそれを包み持ち上げる。温もりを持たない小さな塊は不思議なぐらいに軽い。
 膝掛の包みを中庭に置き、穴を掘る。女は、子供の時によく穴を掘ったのを思い出す。
 夏の終わりは、干涸びた蝉が転がっていた。風が吹くところころと転がった。それを拾っては土の中に埋めた。昔の思いを手探りながら、黙々と土を掘る。その包みを穴の底に置き、土をかぶせる。
 父を埋葬した時、穴はもっと深かった。お骨の箱の上に土を落とすと、土は水のようにサラサラ落ち、跳ねた。それが、父への最後の通信のような気がして、箱が見えなくなるまで見ていた。
 女は、湯を沸かし、湯を被り、何もかも洗い流し、そうして眠り、起きてはまた眠った。女は、アンモナイトの化石の中に閉じ込められた尻尾の生えた胎児の夢を見た。
 女は、目覚め、確かに覚醒しているのに、目を閉じると、現実よりリアルな映像が浮かび、目を閉じて見える映像に怯えた。それは、父が生きていた頃の古い家で、離れ座敷の暗い部屋で、黒い洋服を着た、父の愛人だった若い女の夢だった。
 意識ははっきりしているのに、起き上がろうとしても体が動かない。ずんずん体が沈みこんでいく。もしかして、トオイ昔、自分がこの世に生まれ出る時の恐怖を、今、重ねて感じているのではと女は思い、そんな馬鹿なことがあるはずがないと独り呟く。 
 そして、何日目かの朝、女は起き上がり、中庭の脹らんだ土饅頭を見た。
 子供は、泣き声も上げず生まれ落ちた。女は、子供が男か女かも見ようとしないで、膝掛に包んだ。

 ある風の吹く日、男が帰って来た。
 男は女の腹を見、腹の子はどうしたんだ、と叫んだ。
 女は口を結んだままだった。男は女をつかみ、引き倒し、押さえこんだ女の首を締めるようにして、子供は、と言った。
 男が猛り狂うのと反対に、女は、まるで大きな子宮の中に入ったように静まりかえっていた。
 女は、どうなってもいい、と思っていた。
 男は怒り、そばにあったものを投げ、狂ったように物を投げ続けた。
 静けさが訪れた。男は背中を向けていた。男の荒い息遺いが聞こえた。
 あらっぽく戸が閉まる音がした。女は風のうなり声を聞いた。
 女は日に一度、粥を炊き食べた。そして何日目かの朝、米びつに残った米をかき集め、かゆを炊いた。衰弱しているのはわかっているが、どういうわけかあまり空腹感もなく、かえって食べてふくらんだ胃袋がうっとおしいような気さえして、それよりは、からっぽの胃袋の感じが心地いいとさえ思い、何故か、内臓の感覚が皮膚感覚のように身近に感じられ、時々は、胃壁や食道の凹凸や、じめっとした軟らかさが感じられて、ぞくりとしたりする。
 女の寝ている部屋から中庭が見え、土饅頭のそばの連翹の木が若芽を出している。女は時々盛り上がった土を見ては、得体のしれない気持が渦巻き胸苦しくなった。

 窓の外に卵が置いてあることが、時々あった。それは隣家の酒屋の娘が置いていったものに違いないと女は思った。少し前まで、娘の家は小さな酒屋を夫婦でやっていて、子供に構う暇もなく、娘は家にあがりこみ食事をし、泊まっていくこともあった。娘は、物語りを聞くのが好きで、特に、恐い話、気味の悪い話をすると目を輝かせて聞き入った。女はそんな娘に、昔の自分を見つけた思いがした。
 母のいない自分を育てたのはまだ若い女で、遠い親戚だというその女は、本当は父の愛人で、後で頭が少しおかしくなり死んでしまった。とりつかれたように話し続ける若い女は不気味ではあったが、面白くひきこまれていった。
 女は、自分のわけのわからない性格は、父の愛人によって養われたのではと思い、それは、父に対しての若い女の愛憎が込められたものではないかと思う。
 若い女はいろいろな話を聞かせてくれたが、そのどれも異様な感じを抱かせるものだった。たとえば、池に稚魚をいれた話。
……小さなお魚はぴちぴち跳ねて、それは元気がよくて、可愛かったの。魚たちは餌をたくさん食べ、どんどん大きくなりました。
 若い女は、とても楽しそうに話をした。けれど、若い女の話は、いつも奇妙な終わりかたをした。
……そしてね、りっぱな大人になったお魚を見て、そこのご主人はとっても喜んで、ある日大きな桶をもってきて、お魚をいれました。お魚はびんびん跳ねました。ご主人は、お魚に傷でもつけたら美しさが半減する、と言って心配しました。
 若い女は、そこでにっと笑って、お魚はどうしたと思う、と聞いた。
……お座敷のテーブルのまな板に乗せられ、あれよあれよという間に半身を削られ、お造りにされました。残った半身は桶で泳がされました。お造りはお客さんの胃袋にはいり、泳ぎくたびれた半身も煮物にされてしまいました。
 お魚はりっぱに育って、幸せでした。
 一瞬、女は痛みさえ覚えて、若い女の目を見た。どうして? そのあとに続く言葉も思い浮かばなかった。若い女は、表情のない顔をして、どこか遠くを見ていた。
 若い女は話の合間に、夢からさめたらまた夢だった、と言った。
……ねえ、何もかも本当だなんて思っちゃいけませんよ。なにからなにまで嘘の世界。目が醒めたら忽ち消えてしまう、嘘の世界。
 若い女の持つ希薄な感覚が、女にも身についてしまった。女は浮遊するもののように、漠然とこの世界にいた。
 隣家の娘が学校に上がり、店の景気がよくなると、娘は女の家に来なくなった。店を広げたいから、土地を譲ってくれと隣の主人が言った。女は言った。生きているうちは、もうどこにも行きたくない。死んでからならいいですよ。娘さんに葬ってもらえるのなら。
 女は目覚め、わずかばかりの土を掘り、種を播く。みばえのよくない菜っぱがひょっこりと顔を出し、おかゆに入れて咀嚼する。その繰り返しの中に埋没していった。女は夢とも現つともつかない境目で生きていた。女はぼんやり、庭の土の盛り上がりを見た。体のなかで何かが蠢いた。
 まるで自分とは関係のないところで、刻々と何かが生まれ、何かが死んでいることを漠然と感じていた。それは、得体の知れない不安で、ちょうど今日の空のように、のっぺりと白い、表現しょうもなく空漠とした空に放り出されたような感じだった。
 夏が終わると、白い空が広がった。その白色は、なん色もの色を重ねた上に塗られた白だった。女はその空を見ると、擬体する昆虫のように体の色が変化するのではと思った。だからかもしれない、女はいつも外に出るときは、黒いショールをまとった。
 忘れられたような年月が過ぎたある日、男が帰ってきた。
 男は朝に出て夕に帰ったように、どっかりと腰を下ろし、酒を飲んだ。男の顔は、頬がこけ、多くの皺が刻まれていた。
 男は昔と少し違っていた。少しばかり雄弁になった。酔った男は首をかしげながら呟いた。
 淋しい。やりきれないくれえ淋しい。だから女と暮らすと今度は煩わしくてなんねえ。結局女から逃げ出す。お前は違う。いるのかいないのかわからねえ女だ。そばにいると無性に腹が立つこともあったが、今思うと、お前といるとなんだかしらねえが気持ちが落ち着くんだ。お前、淋しくねえか、年をとるごとに淋しくてなんねえ。本当に置物みたいな奴だなあ。
 以前の男は、飲んだくれても朝には出て行った。だが、男は朝になっても出て行こうとしなかった。
 女は、男の咀嚼する音、寝息、体温、そのすべてを嫌だと思った。
 女は思う。長い長い映画を見ている。男も、他の人間も皆映像の中の人で、けして交わることはない。映像の中ではいろいろなことがある。人が生まれ、泣いたり、笑ったり、そして死にゆく。過ぎ去った日の映像をゆっくり眺めながら、奇妙に白い空を見続けたように、なんともいえない倦怠感を覚えた。
 夕暮れ、空が血を吐いたように赤黒く、胸騒ぎがした。戸が開き、続いてどさりという音がする。女が入り口に出ると上がり框の座敷に男が倒れていた。女は一瞬うろたえたが、次には腹立たしくなった。そのまま男を放って置いたものの、やはり気になり、行ってみると、男は鼾をかいて寝ている。女はいっそう腹立たしくなり、男の身体をゆすったが、びくともしない。女は男の二の腕をつかみ、力を込めて引っ張った。襖を開け、さらに力を込め引っ張った。男の頭が敷居にぶつかった。
「痛い」男はいやにはっきりした口調で言った。女はとっさに手を放し、男を見た。女は説明のつかない感情に捉えられ、髪をかきむしり、うなり声を上げた。それは、しいて言えば自分も含めた生きている肉体への愛憎や嫌悪がごちゃまぜになったようなものだった。
 女は構わず男を引きずり、次の部屋の襖を開け、その敷居に男の頭がぶつかるのも気に留めず、男の身体を引き入れた。生まれてはじめての重労働を成し遂げた女は座り込み、荒い息をした。
 一瞬、男が目を開けた。充血したうつろな目だった。男の唇の端からか細く、「痛い、痛い」という言葉が漏れた。
 静まっていく動悸と裏腹に、女の感情は波打った。動くことも出来ず呻いている男が、単なる肉の塊で、女のそばにいるということが腹立たしかった。
 あたりはしらぬまに、闇に埋め尽くされていた。女はやっとの思いで立ち上がり、流し台のある板の間に行き、お湯を沸かしてお茶を入れた。湯のみ茶碗の端から湯気が立ち上がった。女は古ぼけた肘掛け椅子に座って目を閉じた。
 一面うす黄色の世界だった。芽吹いたばかりのやわらかい若葉が日の光を浴びて笑っているようだった。
 獣道を誰かの後について歩いている。誰だろう。長い髪、グレーのスラックス。女の後姿が見える。不思議なくらい明るい森の中を歩いている。森に置き去られる子供のように、次第に不安が募り、足早になる。あれは、もしかしたら、若い女が私を捨てようとしたのかも知れない。歩いて歩いて、森が開けたところに貯水池があった。あの奇妙な明るさを、女は覚えている。池の水面は銀色のうろこのように光り、空は太陽も出ていないのに、まばゆいばかりの白金色だった。
 女は、記憶の場所がどこなのか、どこに行こうとしているのかわからない。女はいつも遠い日の記憶の中で迷子になったように、途方もなく不安だった。
 男のうめき声が聞こえた。女は耳をふさぎ、身体を折り曲げ、吐き捨てるように呟いた。
 お願いだから、私の目の前から消えてちょうだい。あんたの身体から出る匂いはみすぼらしすぎる。あんたを見ているだけで惨めになる。昔のあんたはみすぼらしさの中にも誇りがあった。あんたは、家も家族も金も愛も要らないといった。あんたの目は野生動物のように光っていた。
 今のあんたは、ただの惨めな老いぼれじゃない。
 女は腹立たしく、憎しみさえこみ上げてくる。
 私の場所には、誰も入れない。
 翌朝、男は事切れ,一つの肉塊になっていた。
 女は目覚め、粥を食べた。お椀を洗うとそれを拭き,拭いたふきんを洗い、流しを洗う。女のいる場所は、いつでも物が整然と置かれていた。光りの当たり具合、埃りのつき具合まで同じだと思う。中庭に光が差している。やわらかい春の光だ。連翹の黄色い花びらが光のしずくのようにこぼれている。
 昼過ぎ、女は立ち上がり黒いショールをまとい、外に出る。一瞬、空の広さ、明るさに驚き、足元がふらついた。そういえばこんな明るい太陽の中を歩くのは久しぶりだった。
 女は歩きながら、照りつける太陽に身体の水分を吸い取られ正気を失っていくような気がした。道端に葉を広げたタンポポは太陽の光を受けて満足そうだった。
 車が走り、人が歩き、道路の両側にさまざまな店が並んでいる。金物屋、酒屋、八百屋、肉屋のショーケースの中にある肉の塊が女の目を捉える。蛇屋……細長いガラスのビンに蛇が渦を巻いている。墓石屋……ショーウィンドーに飾られ、ピカピカ光る墓石。
 女は部屋の中で頭から毛布を被った男を思った。それは女が生きてきた年数より重く、うっとおしい物に感じられた。、男は、自分の夢の中に入ってくるがさつな侵入者だった。けれども男はもうどこにも行くことが出来ない。女は自分の作った安住な場所を男に占有されてしまった。女のいる場所はどこにもない。
 連翹の花がささやいた。私を見て、と。連翹は女のジェラシーをかきたてるほど艶やかに咲いていた。太陽が翳り、薄ぼんやりした曖昧な空が広がった。女は眩暈を覚えた。そしてひどく高いところに上ったような感じがして、木々の先端の密集した葉むらを真上から見ていた。次の瞬間、女の身体は……地面に吸い寄せられた。
 地鳴りがして、巨大な怪獣が女に襲いかかった。女は懐かしいもののように、地面に抱きついた。

一九九一年五月(えん九号発表)