くちなし


 時計は9時を差している。
 天井の羽目板から下るコードの先に電球の笠があり、電球が放つ橙色は光の内外を曖昧に区分けしていた。黄昏時に似たけだるい灯りの中では部屋の調度のひとつひとつが描かれたもののようにとりすまし、そこにたゆたう時間までもが息を止めているようだった。
 窓には障子戸がはめこまれ、その障子戸に時おり薄明るい影が流れる。藤の敷きこまれた床に経机のような座卓が並び、その一つに肘をつき足を崩して、女はたった今目覚めたように虚ろな気分で坐っている。
 止まっていた画像が動きだすように、女は目の前にあるぐいのみを持ち一息にあける。おもたるい気分がかぶさってきて、頭を抱え込む。
 今さっきまで一緒に飲んでいた連れが小用に立ったきり、戻って来ない。ぼんやり前を見ると、障子戸のそばの卓に坐った男と視線があう。女はなぜか身体の内が騒つく。意識がふと途切れそうになり女は目を閉じる。青い残像の中に男の顔が浮かぶ。どこかで男に会っただろうか、と女は思う。
 連れは戻って来ない。頭を抱え、体を支えるのがしんどい。ゆらゆらと水の中の藻のように揺れる。女はこのまま崩折れ、水蒸気のように雲散霧消してしまうのがいいと思う。
 セイカツ、妙に粘り気のある言葉を呟きながら、ざらついたぐいのみの底に残った何滴かの酒を飲む。舌のうえに落ちる数滴の液体はほろ苦く、食道の柔らかい壁をつたい流れ澱になる。身体の中の少しばかりの空間に吐き出されない息が溜まり、膨らみ、ため息になって出ていく。身体の中に何であれ溜めるのはよくないことだわ、と女はひとり呟く。頭の中に記憶の断片が交錯する。悲しみや憎しみのかすが散乱し、整理がつかなくてイライラする。
 白い手がすうっと伸び、仲居が卓の上にちらばった食器をお盆の上に乗せていく。過去に未練なんかないから、この卓の上みたいにさっぱりと片付けてくれれば晴れ晴れするのに、と女は思う。
 連れは帰ったのかしら、と云いかけて、言葉につまる。連れは誰? 誰かと一緒に居たような気がするだけで、男であるのか女であるのかも思い出せない。
 女は卓の上に頭をつけて、少し寝入ったのかもしれない。身体を揺り起こされ、顔を上げると男の目があった。
 女は、あれ、と思いながらもニコリと男に笑いかける。今晩は夜が匂いますね、と調子はずれの言葉が口から出る。
 男は、……くちなしですね、とさらりと受け流す。
 女は自分が創った筋書きを演じるような快感を覚える。それにしてもこんなに調子良く場面が流れるなんて、なんだかおかしいような気分になる。けれど女は、演じ続けるために笑いたい気持ちを振り払う。
 女の頭の片隅に六列に深く裂けた白い花弁が浮かぶ。身体中の臓器が収縮するような感じになり、ため息混じりの言葉が出る。
 女の情念の匂いですね、と女が云うと、男は泣いたような艶っぽい目を見据えて、生きものの情念ですよ、と云う。
 男の低い掠れ声は女の海綿のような皮膚にしみわたり、男の目は水の中の魚のように濡れ、匂いさえ放っているような気がする。女は両腕で胸を抱き締めるようにして、どうしてだか胸が騒ぐわ、と云う。
 私もそうです。じいっとしていられなくて抜け出してきた、と障子戸に映る黒いくちなしの影に目を向けながら、男は云う。
 水路に沿ってくちなしが群生している。昼間の明かりで見ると、少し黄色く変色した花びらも夜は濃い緑の葉に取り囲まれ、妖しいぐらい白く、濃密な香りを放っている。
 女はくちなしの花を思うと、顔のない女の影がいく人も浮かび、肉厚の花弁の一つ一つがすすり泣き、掠れ声で呻いているような気がする。
「くちなしは夜に香りがたつ。……どうしてこれほど息苦しい香りをたてるのだろう」
 男は女の目を見つめながら言葉を続ける。
「くちなしの匂いはあなたの発する匂いと似ている」
 女は意識的に大きく息を吸い込み、自分の匂いをさがしたが見つからず、迷子の子供のように心細くなる。そして匂いだけではなく、自分の顔形までが捉えようもないものに思えて、怖気立った。
「自分の匂いというのは、わからないものです」
 そうかも知れない、と女は男の言葉にうなずきながらも、突如として自分の匂いに気づくときがあると思う。気づいた匂いは女にまとわりつき、女はその匂いで狂うような心地になり、匂いのしみついた皮膚を一枚一枚そぎおとしていきたいような自虐的思いにかられた。
 女はなんだかひどく乾いた気持ちになり、水気が欲しいと思った。すると男は頃合をはかったように、雨のようです、と云う。
 女は耳を澄ましながら、ザザッと鼓膜をひっかくような雨の音を捜す。雨の音がしないと女が云うと、男は音ではなく匂いだと云う。
「どういうような……」
 男の青白い顔の、くっきりとした輪郭をもつ唇がゆっくり動く。
「この季節の雨はなんともいえず生臭いのです」
「鼻がいいですね」
 男の言葉に女は雨に濡れて黒く光る路面と湿気を吸い込んだ葉叢を思い、そして次に傾いた縄暖簾や建て看板の剥がれた文字、大きな赤い提灯と、店の入り口辺りを思い浮かべる。
 ああ傘を持ってないわと思うと、男は大丈夫ほとんど霧のような雨ですから、と云う。
 女はふと気になって、鴨居のところに掛かっている時計を見る。9時、そんな時間であるはずがないと思う反面、一方では、ああ9時だから大丈夫と思う。 
 男は胡坐をかき下を向いたまま酒を飲む。女はどうして下ばかり向いているの、と云いながら男に酌をする。手が震え杯から酒が零れる。男の名前を呼ぼうとして、混乱する。
「失礼ですが、あなたのことよく存じあげているような気がするんですが、おかしいことに、あなたの名前がわからないんです」
 男は少しだけ顔をあげて、Nです、と云う。
「N? あの、エヌですか」
「おかしいですか」
「いえ」
 あなたの名前は、と聞かれて、女は、えっと思う。名前、名前は? 男はSでしょうと云う。エス? そんな馬鹿なと思っても女はいくら考えても自分の名前が思い出せない。「あなたがSで私がN。私とあなたは心の底よりもっと深いところで引き合ったのです。地軸に引き寄せられる生き物のように……」
 男の目はきらりと光り、そういうものを信じますかと、恥じらいもせず芝居口調で云う。
「目に見えない磁力ですか。あるかもしれませんね」
「あなたの目を見た瞬間感じたんです」
「口説きなれてますね。悪い気持ちはしませんが、恋とか愛とかいう言葉って寒気がするんです」
「どうしてでしょう」
「所詮、子孫繁栄に繋がるプログラムを演ずるだけでしょう」
「いいではないですか。生きることは生殖することです。生殖は神聖な行為です」
「それなら単細胞生物のように分裂していった方がましだわ」
 言葉遊びは止めましょう、と男は女の肩に腕を回す。
 ここは静かすぎる、と女は思う。見回すと、黒っぽい服の客が背中を丸めてちらほらと置物みたいにいる。どういうわけか話し声がまるでしない。線路に沿った小さな居酒屋だというのに、電車の音も聞こえない。
 男の掠れ声は、一年に一度だけせつない思いをすると云う。
「寓意話にあるでしょう。一度だけ人間の姿に戻れるというような。それがいつも、この季節なんです」
 女がどうしてこの季節なのかと聞くと、男は、匂いだと云う。
「匂い?」「くちなしの」「くちなし?」「あれはやはり女の情念かもしれない」
 女はじょうねん≠ニいう言葉の持つ思いに引きずられ、体の芯がざわめく。
 男は淡々とした口調で話し始める。
「去年の今頃も、この水路で情死がありました」
 女は情死という言葉を聞いて、胸に錐でもさしこまれたように痛み、そして次には、水の中で宙ぶらりんになっている自分の肢体を思っていた。
 夢で見たのだろうか? 水の中というのは空気中にいるのとはおよそ違った奇妙な質感と密度で、浮遊しているうちに自分の中にあると思っていた気持がどんどん薄められてなくなってしまう。
 男の目が濡れている。
「死と戯れるのは、男女が交わる時にかすかに感じる悲哀を凝縮したような……陶然とした世界です」
 女は男の話を聞きながら、永遠に息を吐き続けなければならないような重苦しい気分に襲われた。気をとりなおすと、目の前にいる男がまるで女の心のなかに入りこんだように語りかけている。
 ――むかし、私もそうして自分を喪失した。絶望などというあまったれた苦悩に唆され、私は自分自身の肉体を断ち切り……。そんな格好いい話ではなく、稼いで女を養っていくこともできない私は、この世から消えることを望んでいた。
 そんなとき居酒屋であなたに会った。隣の卓であなたは顔を伏せていた。気分が悪いのですか、と声を掛けた私に、どうして優しい言葉をかけるのと噛みついてきた。私のことを心配してくれるわけ。博愛主義者なわけ。貴方そんな慈悲深い顔していないわよ。嫌いなのよ。貴方みたいな哀れっぽい男って大嫌いなのよ。
 あなたの言葉は、どろどろに煮詰めた毒薬のように私の身体に入りこんだ。
 そうなんだ。生きているのが嫌でしょうがないんだ、とおぞましさを曝けだして云うと、あなたは、じゃあ死んだらいいでしょう、と受け流した。それはそうだと私が苦笑いすると、今度は形相を変えて、どうしたの、死ぬの死なないのと私の腕に爪を立てた。
 外は冷たい雨が降り出していた。路面に落ちた雨粒は無残に広がり、それぞれの流れになっていた。水嵩の増した浄水路の淵に立ち、私は黒い水のうねりに怯えた。あなたが私の体を引いたのかどうなのか分からない。濡れた青草の上をズルズルと足から滑っていった。私の頭の中はぐるぐると回った。あーっといいながら私は泥と水と闇の宇宙の中に吸い込まれていった。
 ……あなたが私を呼んだ。私の残っている思いを、くちなしの匂いとよく似たフェロモンを出して呼んだ。
 女の頭の隅に映像が浮かんだ。それは闇に浮き上がる白いくちなしで、花々から匂いたつ妖しい香りは女の身体の末梢にまで流れた。花は朽ちた人の思いを吸い込んで咲くのかもしれない、と思うと女はたまらなく胸が熱くなった。
 ふと目を止めると、鴨居の柱時計が9時を差している。確かさっきも9時だった。女はうろたえた。そして女は自分のいる場所を改めて見回した。
 女は時々、時間の繋ぎ目に落ち込んだように消えていることがあるのではないかと思っていたが、今もそういう感じだった。すると不思議を感じなかったこの場所が、瞬間女を分厚い壁のように圧迫した。
 ここはどこ? 自嘲しながら呟き、回線が切れたように確かなものに繋がらないもどかしさを感じた。
「外に行きたいのですか」男は云った。
 男に抱えられるようにして立ち上がった。障子戸を開けると細い廊下があり、框を下りてガラス戸を開ける。
 店の外は暗い闇で、水路の端に咲いたくちなしの花だけが妖しくほの白い。女はやはり知らない場所だと思い、ここは一体どこなのかと男に聞く。
 どこと聞かれてもあなたが納得するような説明はできない、と男は云う。どういう意味ですか?
 所番地があるでしょ、と云うと、あったのかもしれない、そう云いながら、男はふっと女から目をそらす。
 あなたはわかっているはずだ。あなたは私に抱かれながら私の気持ちを弄んだ。私の肩を噛み胸に爪をたてながら、どうか滅ぼしてくれと云った。だからこの冷たい水路のなかに入ったのではないか。
 女は雲をつかむような男の話が理解できず、男は気がふれているのではないかとさえ思い。これ以上男の言葉を聞いてはいけない気がして、帰ると云う。
「帰る? どこへ」
「どこへって?……」
 男は女の肩を抱き、引き止める。女は男をふりほどくようにして歩き始める。男の気配を感じながら女は線路沿いにくねった道を歩く。大きくカーブした線路を、半分浮き上がったような感じで銀色の電車が通り過ぎる。電車の窓は人影がなく照明だけが赤々とついている。女は電車を見送りながら、あれはどこに行くのだろうと思う。そう思うと女は胸が締め付けられるのを覚え、電車に乗るとここでない所に行けるのでは、と思う。男は女の背中を抱き締め、身体を回す。女は男に抱かれながら切れ切れに裂けるような気がし、男の胸にしがみつき顔を埋めながら、暗い井戸の底に落ちていく身体を繋ぎ止めているようだと思う。
 男の身体は温もりも匂いもない。女は正気にかえったように、帰らなければならない場所があるとひたすら思う。
 ああそうだ、駅に行って電車に乗ったらどこに行ったらいいのかわかるかもしれない。男は女の気持ちを見透かすように、あなたが望むならそうしたらいい、けれど私とあなたはもうこうして抱き合うことも、ただ会うことさえもできないだろうと、云う。
 男の視線をふりはらい、女は線路に沿った道を歩きはじめる。歩きながら女は不気味な静けさを感じている。まるで耳をふさがれたように何の物音も聞こえない。女は立ち止まり、後ろを振り返ろうとして躊躇する。男が立ち続けていることを期待したのではない。もしかしたら、女の後ろの風景は何もないのではないかという恐怖にとりつかれたのだ。それでも女は思いきって振り返る。黒く濡れた路面に青白い街灯が映っていた。
 女は線路の先に駅舎の灯りを見つけた。自動券売機の前に立ち、切符を買おうとして戸惑った。ここがどこで、どこへ行くのかわからない。券売機の上にある路線案内の図を見ても、なにやら記号じみた文字が目に入るだけで理解できない。女はここではないどこかへ行ければいいのだと思い、硬貨を入れボタンを押す。するりと切符が出てきた。切符を握り、改札口を通り、階段を上りながら、女は身体が奇妙に軽く、それに外界の景色が薄い膜でもかかったみたいにぼんやりしていると思った。
 空には重い雲が垂れ込め、星は見えない。ホームの天井に下がった時計は9時を差している。壁に貼られたポスターを見ているうちに、女はなんだかポスターと同じ平面の中にとじこめられたような気がしてくる。
 電車の灯りが見え、銀色の車両がすべるように入ってくる。ドアが開き、一段高くなった車両の床に足を乗せる。そして真っすぐ反対のドア側に行き、手摺りに捕まる。オレンジ色のシートにはちらほら人が坐っているけれど、なぜか誰もが身動きひとつしない。
 電車はゆっくり動き出し、たれさがった中吊り広告がかすかに揺れる。窓の外はときおり灯りが見えるだけで、暗い闇が続いている。女は、見えるはずもないあの場所を捜している。線路脇のくちなしの花に囲まれた居酒屋。電車が傾ぎ、大きく曲がっているのがわかる。浮き上がるような感じの中で女はガラス窓に身体を押し付けられる。闇のなかに見える居酒屋の灯りに胸を熱くする。
 そのとき、女は声にならない悲鳴をあげる。どうしたというのだろう。
 暗いガラス窓には女の姿がない。