虫を食う                                 

                                                  坪井 唯

 蝉はなめたじてんで味がしないんだ。

 TVに映し出された虫を見てTは話はじめた。
 うえー、まじい。
 Tは顔を歪めながらも虫を食う話をする。
 蝉はとりあえず、その味のなさが不味いんだ。
 分かるか、その味のなさが。蝉は基本的に固いんだ。とにかく噛むわけだ。
 けっこう下の歯はサクッといくんだけど、上の歯は羽があるからうまく噛めないんだ。
 頭からがぶりといくわけ。
 そうだ、頭からだ。
 Tは右手を口元まで持ちあげ、蝉を持ち口に入れる仕草をする。大仰に顔を歪めて、
 うえー、きもちわりいー。
 気持ち悪いって言いながら、食べるわけ。
 食べなきゃいけないんだ。
 気持ち悪いとか、嫌だとか言いながらTは結構その感触を楽しんでいる。
 こうさ、あのプラスチックが薄くなったような羽がさ、歯応っていうのがあるんだ。結構噛んでも噛みきれなくて、飲み込むと喉にひ っついたりして、いやーな感じなんだ。
 もういいから、腹もガブッていくんだ。とにかく噛むんだ。噛んでるうちに蝉の体液とか脳味噌とかまじって苦い砂を食っている感じ なんだ。
 うえーまじい。蝉はそんな感じだな。

 まじい、まじい言いながらよくそんなもん食うね。次は何を食うんだ。
 カブト虫をいこうか。
 カブト虫はとりあえずかてえ。
 まず角から食ってみよう。
 角から。
 Tはまた虫を手で持ち、
 角はこうやって食うじゃない、と口に入れる仕草をする。クッと前歯で噛み切って折れたところに神経の線が糸みたいに出てるん  だ。角は不味い。噛んでも噛めない。噛み切れない。それでも噛んでるうちにまわりの茶色い皮みたいなのがぼろぼろとれて味  がない砂になる。腹は下の歯で少し噛むとへこむだけで、うえーまじい。
 そこで躊躇してはだめだとばかり、Tは言う。
 いっきにガンといく。取りあえず下の歯で全部噛み切る。カブト虫の甲羅はパキッと折れる感じゃなくて、くにゃっと曲がる。腹の部 分だけが噛める。苦くて臭い。殻の部分が木の皮みたいで噛んでもどうしても噛めない。それでも噛んでると苦い汁が混じる。腹 を食い終わって、甲羅を噛んで、苦い汁を飲んで、だんだん口の中でボロボロになって砂を食っているみたいだ。

 Tは止めがきかなくなったように、話し続ける。
 よく食うね。虫なんか。
 世の中に虫ほど気持ち悪いものはない。あの足。細くて毛の生えた足。目、まるっこくて固そうな目。羽、プラスチック製の羽。
 それにあの腹のやわらかさ。体液はどろどろしていて、緑色なんだ。
 そんな気持ち悪いもの、どうして食うわけ。
 想像しちゃうわけ。嫌いなものを想像するとき、食ったらどうだろうなって。
 蛇とかネズミとかはいいわけ。
 ああ、爬虫類とか哺乳類は、抵抗なく食べられるんだ。
 へー。犬でも猫でも。
 人でもいいわけ。昔、飢饉の時は赤ん坊を食ったって言うじゃない。
 なんかで読んだんだけどさ。手術して肝臓かなんか何分の一かとった人がさ、食いたいって医者に言ったんだって。
 医者が駄目だって。
 へえー、食いたいっていうヤツも変だけど、なんで駄目なわけ。
 よく考えてみ。自分の胃袋が自分の肉を消化するっていうことなんだ。ありえるか。
 よくは覚えてないけど、DNAっていうのが同じだから、同じものをだな同じ消化液で消化できない。
 つまり自分は自分を食えない。
 だから食えないのは自分と虫だ。うえー、想像しただけで寒くなる。
 虫だって、あんたのこと見てそう思ってるよ。
 虫に脳なんてあるか。
 脳はなくても脳に変わるものがあるかもしれない。虫は偉いんだ。人間より前から生きてるし、人間が滅びても生き残るよ。
 そうかもしれない。強かろうがなんであろうがオレは虫が嫌いだ。

 次はなにを食おうか。
 まだ、食うわけ。
 蝶々、いや蛾をいってみよう。まず羽を食うわけだ。
 口のなかにいれると粉がベロにつくんだ。うすくしょっぱい味だ。粉だけしゃぶるんだ。
 羽だけになったのを噛むと紙でも食うみたいで味がしない。
 紙食ったことあるわけ。
 あるよ。テッシュペーパーをね。まじいんだ。食えるもんじゃない。
 蛾の羽は噛んでも噛めなくて喉につく。だからちょっとずつ食う。口の中でちぎれて粒粒になる。噛んでも噛めないから飲み込む。 それが粉薬みたいに歯のまわりにくっつく。奥歯に頭がくる。意外と頭が固くてバリッとくる。潰れた破片が歯に残っている。
 次に腹を噛む。ちょっと柔らかいんだけど、噛んだ瞬間ジャリッとくる。切れた腹からビッと苦い液が出る。苦いよ、絶対虫は。
 口の回りに粉がついていて、それをなめるとうすしょっぱい。
 ああ、頭が痛くなってきたと言いながら、Tはそれでも続ける。顔つきがだんだん醜悪になっている。
 次は蚯蚓か。いうまでもない。ながいまんまいっぺんに口にいれるわけだ。土と不味い水が混じった味がする。
 蚯蚓は、漢方薬で食べるよ。
 干涸びた蚯蚓じゃないよ。生きのいいぶっとい蚯蚓だ。蚯蚓はどっちが頭か分からない。
 噛むわけだ。
 ツルッとするの?
 しない。意外とぼろっとする感じ。
 なんていうか、ちょっと弾力があるんだけど、かめちゃう。くだける。かみきれる。
 味は、ずっと土と不味い水の感じ。味のないような不味さ。
 ぬるっとこないの? 
 こない。しいていえばぐにゅっとくる。けっこうお腹がいっぱいになる。

 蜻蛉はどう。食べやすそうじゃない。
 蜻蛉は羽だな、ひとまずは、味がないんだ。
 羽は、こう縦にして噛む。噛むわけだけど固くなったビニールみたいでなかなか噛めない。
 食ってるうちにばらついてくるんだけど、味がない、噛んでも小さくならないし飲みこみにくい。
 喉んとこに薄い破片になってつく。羽は食った後胸がやける。今度はしっぽからいく。
 長いからぼりぼり食う。いっぺんに食えない。しっぽのへんは、なに味だろう。よくわかんねえけど、食ううちにこなごなになる。
 水かなんか飲まないの。
 飲まない。もっとまずくなる。
 いっきに飲みこめるじゃない。
 いや、だめだ。
 蜻蛉の水分がでてくる。
 頭は、いっぺんに食えちゃうから味がわかんねえ。水分がでてくるから、ぐじゃぐじゃになって、ずっと噛みつづける。
 飲まないでずっと噛む。噛んでるうちにどろどろした液体になる。味がまずくなる。それでそれをコップとかに出す。
 悪趣味だね。
 コップの中身を見たら、灰とか黒、茶色がつぶつぶにはいっている。
 それ見て気持ちいい。
 いやだ。
 なんでいやなことするの。
 恐いものみたさと同じさ。
 それをまた飲みなおす。ぬるいんだよ。へたにまずくなる。
 鼻つまんで飲むんだ。口のなかを通る感触で気持ち悪くなる。
 話を聞いているだけで、気持ちが悪くなり吐き気を覚える。

 Tは構わず、憑かれたように話し続ける。
 蚕、イモ虫の類は、とりあえずやわらけえ。
 半分だけ前歯で噛む。やわらけえ。前歯の裏にみどりの液体がつく。
 それはそれでいいとして、噛む時ちぎれているからそこからみどりの液体が出る。
 完璧にそととなかの液体がわかれる。液体は苦い。
 みんな苦いのねえ。
 虫はみな苦いんだ。苦いのとまずい水の味がする。
 噛んだら、京都の「やつはし」の歯ごたえで、意外とやわらけえ。イモ虫、蝶の幼虫には足があるんだ。
 足は固いから残る。噛めないつぶつぶと液体が混じる。量がおおい。イモ虫はでかいから、ひとくちじゃ飲めない。
 ふた口で飲むけど、足とかが口のなかに残って不味いんだ。
 毛虫とイモ虫は同じようだけど、違うのはプラスチックの髪の毛を食っているような、サボテンの毛を食ったようなもんだ。

 Tは一瞬間をおいて、サボテン食ったらまずいだろうなと言う。
 Tは少し考えるふうをして、続ける。
 ゴキブリは、食いたくねえ。不味いだろうな。
 どうする。食わない。
 うっひゃー想像してしまった。食いたくねえと思うほど想像しちゃうんだ。想像しちゃった以上食わざるをえない。
 どうして?
 食わないかぎり、その想像がつきまとうんだ。
 小さいのからいこう。ひと口で食えるサイズだから、口にいれる。
 へたに動くんだ。噛んだときへんな感じで、腹だけひっかかってとれちゃう。
 それでも生きてる。柔かい。水っぽい。
 それにね、ゴキブリは苦くねえんだ。食ったらゴキブリの卵のつぶつぶがはいってるんだ。
 つぶつぶを食うとなかから水がでるんだ。頭とか、なかはすかすかで、ばりばりするんだ。
 ああそうだ、触角があった、触角は噛めねんだ。ゴキブリはぼりぼり食うんだ。固い糸、折れそうな糸みたいなんだ。
 そんな糸あるのか。
 羽の不味さとカブト虫の不味さが混じる。

 カマキリ。食いたくねえな。こんなこと考えてたら頭おかしくなる。
 カマキリは不味いでしょ。
 カマキリは一口で食っちまう。つかまえて食おうとすると、羽が口からはみでる。
 カマキリが一番不味い。腹のやわらかさ、背中のカマの固さが混じるんだ。
 カブト虫の次ぎぐらいに不味い。
 そうかなあ。
 あの砂の味の不味さったら。
 砂食ったことあるのかよ。
 あるよ。
 なんでも食うやつだな。
 もうあらかた虫は食ったな。
 もう食いたくない。

 授業中によー。無性に眠くて寝ちゃったんだよ。はっと気がついたら、虫を食ってたんだ。
 眠れるもんじゃねえ。もう眠れねえ。こんな夢を見るんじゃ、死んでも眠れねえ。
 そう言うTの唇から、黒いギザギザの足がはみ出ているのが見えた気がした。


 1995年 作


 二十一世紀文学新人賞 応募落選

 

 

 

 

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部 屋

                                      坪井 唯


  1

 ……もしもし?
 義男?
 うん 寝てたわ
 え? あぁ、まぁいいよ
 何時? 今
 五時半!?
 早ぇよー 寝たのさっきだぜ
 しょうがねぇじゃん、バイトだもん
 何? どうしたの?
 何だよ 落ち着けよ
 ゆっくり話せって
 え? 今日? 何時に?
 何時でもいいって ほんとに何時でもいいの?
 何? 何かあんの?
 とにかくって……
 あ、そう……
 わかったよ
 え?
 そりゃそうだろ サトシだって寝てんだろこんな時間
 うん…… ま とにかく一緒に行きゃいいのね?
 何? 大丈夫か義男?
 すげぇ慌ててる感じがすんだけど
 あ そう?
 ……わかった 連絡してみるわ
 はい はい うん
 ん じゃーねー


 ゴイーン! ゴーン! ガゴーン! ゴギー!
 先週くらいに始まった工事。何が出来るのかは知らないが、とにかく作業員たちはひっきりなしに大きな部品を運び、大きな何かの骨組みを立て、大きな工具で「これでもか!」と空間が割れんばかりの音を立てている。冬よりも五倍くらい大きくなった太陽に照らされた作業員たちは大粒の汗をたらし、必死になってネジを回したりしている。たぶん一本のネジですらなければ成り立たないのだろうが、どうにも浩一には馬鹿らしく思える。あんな小さいネジの一本や二本、なくたって大丈夫だろうが……と。暑さと眠気と騒音に朝から不機嫌になった浩一は、工事の光景を眺めながら思っていた。
「チッ……。毎日毎日朝からうっせぇんだよ、暑ぃし」
 午前十時を指す時計を見ながら浩一はぶつぶつとつぶやいた。
 バイトから帰宅し、食事というよりは摂取に近い行為をしながらネットサーフィンをする。ネット上にある何の役にも立たない情報をひたすら何時間も眺め、太陽が東の空に顔を出し空が碧色になり始めた頃に布団に入る。そして寝付きの悪い浩一がようやくうとうととし始めた頃に、作業員達のスイッチが入り、同時に猛獣の咆哮のような音が浩一の部屋に鳴り響く。何年ぶりかの猛暑に加え連日の工事。浩一はここのところ完全に睡眠不足だった。
 トランクス一枚で汗だくの身体を起こし、朦朧とする頭で扇風機のスイッチを入れる。分かってはいたが部屋は涼しくなんてならない。淀んだ空気が部屋の中に渦巻くだけだった。もやもやと暑さで歪んだ部屋を抜け、朝イチの仕事をしにトイレへと向かう。半分寝ている頭で用を済ませ、ついでに冷蔵庫から麦茶を出す。部屋にいる時の定位置であるソファーに腰掛けて、開けていない封筒やチョコの袋や空き缶や廃品回収のチラシで散らばるゴミ箱ならぬ、ゴミ机の上に麦茶を置く。捨てれば片付くのは分かっているのだが、なぜだか出来ない。遺伝子に机の上のゴミを捨てるなというプログラムでも入っているかのようだ。
 床に落ちているタバコを拾いライターを探す。いつだったか、起き抜けの一服は身体に悪いとネットで見た気がするが、ネットの情報は当てにならない事が多いし、美味い時は身体が欲している証拠と気にせず続けている。なぜかラグの下に入っていたライターをみつけタバコの箱を開ける。
「なんだよ、一本しかねぇじゃん」箱を潰しながら煙草をくわえ、火をつける。
 タバコの煙を吐き出しながら机の上にある手紙を手に取る。ちょっと前にどこかの宗教団体の二人連れが、啓蒙のような勧誘に来た時に、色々と普段疑問に思っている宗教にまつわる事を話した事があった。その二人は熱心に浩一の話を聞き、分からない事があった場合は次までに調べてくると言い、実際に調べてきて話してくれた事もあった。その後何度か二人が家に来ているが、出るのが面倒で居留守を使ったり、実際に不在だったりと顔を合わせていない。だが来る度にわざわざ書き置きを残していき、浩一はそれを見る度に「なんとまぁ熱心な事か」と思っていたのだ。浩一は、宗教やオカルト的な事、幽霊やUFOや超能力、そういった事柄は基本的に否定的だ。ところが、宗教について疑問に思っていた事を二人に話してしまった事で、宗教に興味がある人間だと勘違いされてしまった。だからといって「もう興味ないから来ないで下さい」と追い返す事も出来ず、書き置きだけが捨てるに捨てられず増えていく。その手紙を机に放り投げながら「どうしたもんかなぁ」と、肺で濾過した煙を宙に吐きながら二人の顔を思い浮かべる。とはいっても暑さで何も考えられず、一口タバコを吸っては吐き、麦茶を一口飲む。そうプログラムされたロボットのように無感情に動いているだけだ。
 顔のあらゆる部分から出ている汗を拭きながら、ふと「そのままサウナ経営出来んじゃねぇの?」と、つい先日泊まっていったサトシに言われたことを思い出す。しかし暑くて狭い部屋とはいえ家賃四万二千円は今の自分の経済状況を考えるとそれでもギリギリだった。時給七五〇円のレンタルビデオ屋で週五日。家賃は収入の三分の一位が妥当というから、自分の収入ならこんなものなんだろうと思っている。しっかり働いている友人達は十万円近くの家賃を毎月払っているようだが、物欲が強い浩一にしてみれば「家賃より物」と、置き場所が無くなる程あふれかえった物に囲まれた生活に充実感すら得ていた。
「しかしこりゃサウナ以上だわ」独り言を言いながら携帯を手にとる。
 着信履歴には、早朝の義男からの電話がしっかりと残されていた。もしかしたら夢だったんじゃないか?と思っていたのだが今回は間違いないようだった。
 というのも、以前好きだった女の子から夢の中で電話で告白された事があった。返事は電話でお願い、と夢の中で言われたのを現実と混同し、起き抜けにハイテンションでその女の子に電話をし「俺も好きです!」と言ってしまったのは、かれこれ三年前だ。あれ以来睡眠時の電話には注意している。
「嫌な事を思い出しちまったな?」と言いながら電話を布団に投げ、まだ寝ている脳みそを起こしながら電話の内容を思い返してみた。大体いつも義男からの電話は変な時間が多かった。今日みたいに早朝もあれば、夜中にも時間を考えずかけてくる。そのわりに特に内容も無く、よく分らない事をあぁだこうだと一方的に話して電話を切る。最近ではそんな義男からの電話に辟易していたので居留守を使う事もよくあった。
 だが、今朝の義男からの電話には二つほど気になる点があった。
 一つは、あの義男が慌てていた事だった。





   2

 去年の夏、暇をしていた仲間達で、じゃんけんで負けた奴が町の外れの有名な心霊スポットである廃屋に一晩泊まるという、しょうもない遊びをやったことがあった。その時義男は後出ししたにも関わらず負けてしまい、さほど嫌がるわけでもなく、かといって楽しむわけでもなく、苦みと甘みを複雑に混ぜ合わせたようななテンションで、何の用意もせずに一人その廃屋に向かって行った。
「明日の朝九時に行く」と浩一たちは義男と約束をしてはいたが、もちろんそれは嘘だった。ビクビクしているであろう義男を驚かしてやろうと、真夜中に男五人で集まり廃屋に向かったのだった。
 その廃屋があるのは、うっそうと立ち並ぶ木々に囲まれた広い雑木林の奥で、昼でも薄暗い場所だった。昔から子ども達の間では恐れられていた廃屋ではあったが、それこそ殺人鬼がそこで人をバラバラにしたとか、カップルが心中したとか、ありがちな噂ばかりが流れていた場所でもあった。とはいえそんなありがちな噂しかない場所なのだが、身体の隅々まで入り込んでくるひんやりとした空気や、気を抜いたら一瞬にして闇に引きずり込まれてしまいそうな雰囲気がそこには佇んでおり、月明かりで照らされているとはいえ男数人で歩いていても、冗談なんて言えない粘っこく張り付いてくる恐怖感が漂っていた。
「義男のやつマジでいんのか?」
「ここに一人で泊まるとかって、ありえなくねぇ?」
「俺だったらソッコウで逃げるわ」
「やべぇ……。超コウェーよ」
 それぞれが勝手に喋る。恐怖から逃れるためなのか、独り言が増える。
 月の明かりが届かないほどの暗闇の雑木林をしばらく歩くと、ようやく廃屋が闇の中に見えて来た。トタンなのか木なのか、くすみ、朽ち果て、ふとそこだけ色彩が無くなってしまった壁。家を動かなくする為に、拘束具として絡み付く植物。外と中を分ける必要がないと、家が自ら全て割ってしまったかのように見える窓。とにかく人間が恐怖を感じる要素が全て詰め込まれた恐怖要塞だった。
「うわー! 無理無理! これぜっったい無理!」
「ここで何かあったとか関係なく、この家自体が恐いわ」
 さっさと義男をビビらせて速攻で帰ろう。と誰も口にしてはいないがみんな心の中でそう思っていた。
 義男にバレないようにつま先立ちで歩きながらドアの前に立ち、「せーの」でドアを開け、奇声を発しながら中に飛び込む!という何のアイデアも無い驚かせ方が、恐怖で頭を麻痺させられた浩一達に思い付く、唯一のアイデアだった。
 錆び付いて赤褐色一色になったドアノブは、ドアを開ける為につかむ場所という本来の役目を終え、今では俺に触れるなと言わんばかりの主張をしている。そんなぼろぼろのドアノブを、浩一は「触りたくねぇな〜コレ」とひとり言を言いながら見つめていた。それに焦れた皆から「早くしろよ」と無言のアピールを受け、嫌々ながら浩一は言った。
「じゃ、行くぞ?」
 浩一がドアノブに手をかけた瞬間、背後で何かが爆ぜるような音がした。
「ワーーー!!」
 あたかもオリンピックの百メートル走のスタートがその爆ぜる音で切られたかのように、少し離れた場所にいた全員が一斉に浩一に向かって走り出して来た。義男を驚かせるためではなく、自分たちが逃げ込むためにドアを開け、恐怖を身体から放つために奇声を上げながら家になだれ込んだ。
 部屋に転がり込んだ浩一達は、何の助けにもならないと分かってはいたが、とにかく義男を探した。
「義男ー!」
「いなくね?」
「おい! どこだ義男ー!」
 部屋の中は思っていたよりも綺麗だった。綺麗とはいっても割れたガラスの破片やペットボトルや、ぱっと見で何だかよく分らない物がどこを見ても目に入ったので、あくまでも「廃墟のわりには」綺麗だった。だいたい八畳ほどの、そんなに広くない部屋で義男が見当たらない事に浩一達はとまどったが、よく見ると、奥に誰かがハンマーで殴って強引に作ったとも思える雑な入り口があるのをみつけた。
「あっちは?」
「お前見てこいよ」
「ふざけんなよ、無理だろ!」
「でもここにいねえんだから、あっちしか無えじゃん」
 奥にある部屋から誰一人目を離さず、お互いに押し付け合う。
 縦一列になると先頭と最後尾が不利という、心霊スポットではよく見られるやりとりがあった後、明らかに入り辛いにも関わらず、浩一達はデモ行進のように横一列になって奥の部屋におそるおそる入っていった。
 中に入った浩一たちは部屋を見回した。テーブルや棚やタンス等の生活にまつわる家具は無い。入り口から一番遠い部屋の隅に椅子らしき形をした物が置かれているだけだ。シミで薄汚れた壁にはなぜか窓が無く、浩一達が入って来た畳一畳分くらいの入り口以外は全て壁だ。閉め切られた部屋の空気は、体温に近い温度に暖められたせいかあまり温度を感じない。だが、心だけは冷凍庫に入れられてしまったように寒い。埃と黴とが混じり合った闇は浩一たちの鼻腔から入り込み、逃がすまいと身体を硬直させる。浩一はすぐにでも部屋から出たいと思ったが、部屋に背中を向けた瞬間に闇に潰されてしまいそうな気がして、振り向く事すら出来なかった。
「義男……?」
「いんのかー?」
 大きい声を出しても闇に潰される気がして小さな声しか出せない。義男以外には何も見つけたくないのだが、少しずつ闇に慣れてきた目は必要以上に情報を脳に送ってくる。見たくないが、見えないと怖い。俺たちは一様にとにかくキョロキョロしてしまっていた。まるで巨大なミーアキャットの群れだった。
 ほどなくして、一人が闇の中に何かをみつけた。
「あれ何? あの角の黒いやつ……」
「え?……」
「あれ義男じゃねぇの?」
「おい! 義男!」
 全員の目が部屋の隅にある、黒い雪ダルマに見える固まりに集中する。
「……ん? 誰? 何?」
 黒い雪ダルマがどこからともなく声を出した。
「お前何してんだよ!」
「え? 浩一か? 寝てたけど……。もう九時?」
 自分の家で目覚めた時と何ら変わらない伸びをして身体を起こす義男を見て、呆然とした浩一達からスッ…と恐怖が蒸発し抜けていった。

 と、あんな状況でも慌てる事のない義男だっただけに、どんな事が起これば義男が慌てるのかは想像がつかなかった。だが、その義男が深夜の電話では息を荒げ、早口にまくしたて慌てていた。
 そしてもう一つ、義男が「何時でもいいから来て欲しい」と言った事だ。





  3

 時間には律儀なのが義男の長所であり短所だった。自分が遅刻する可能性がある時は「遅刻するくらいなら行かないから、約束の時間に俺が来なかったら行っちゃっていいよ」と宣言されていたし、昔は遅れた奴に対して一日かけてネチネチと「俺の時間を返せ、この時間泥棒」と言い続けていた。最近ではそれでも遅刻が減らない浩一達に対して見切りをつけたのか、集合時間に一人でも来ない奴がいると速攻で帰るようになっていた。一度本人に、何でそんなに時間に関して融通が利かないんだ?と聞いた事があったが、よく分らない義男なりの理論をひたすらアツく話された。
「時間て言うのは、全人類……。いや全世界の物質に平等に与えられたモノだろ? それはいいよな? さらには「俺だけ時間の進み方が遅いんだけど」とか「今年の正月は飛ばすわ」なんて事は誰も出来ない。きっちりとした流れがあって、一定の方向にだけ進む。その中に俺達は身を置いてる訳だ。だが、そんなきっちりとした流れである時間にも関わらず、何分とか、何時間とか、区切りを付けて感じたり計ったり出来てるのは人間だけなんだよ。そこに数字を当てはめて四時三十五分とかさ、すげぇもんだよ昔の人間は……。ってまぁ、昔の人間の話は別にいいんだけど。でな、動物とか石にはそんなの分かんない訳だ。そうなってくると、時間を理解出来るって事は才能というか、与えられた役割みたいに思える訳よ。むしろそうやって時間を理解出来る以上、出来ない物たちの規範にならなきゃいけない訳。だから守る。君達に対してじゃなく、時間に対して真剣なんだよ、俺は」
 と、全く浩一には意味不明だったが、とにかく時間を守る事に対しての独自な考え方を持っていたのだけは確かだった。
 それだけに、何時でもいいから家に来て欲しいという義男の話が気になっていたのだった。あの義男がそこまでしてでも来て欲しい理由……? しかも、あんなに慌ててたのに何時でもいい、という矛盾……
 しかし考えていても分からない。「まあ義男の事だしな」と浩一は考えを投げ捨てた。
時計を見ると十時だった。まだサトシと集合するには早く、かといってもう一度寝るには遅かった。浩一は決めるべき事は早めに決めておかないと気になって仕方ない質なので、義男に言われた通りサトシに電話をした。
「もしもし浩一だけど」
「おぉ、おい〜っすぅ」
 暑さで溶けかかっている人間特有の、くぐもった湿った声だった。
「お前、その声なんだよ。寝てた?」
「この暑さで寝てられる奴がいたら紹介してよ。肩組んで歌いたいから」
「あ、ほんと? いるよ。じゃそいつ肩幅すげぇ広いしちょうどいいね。今度紹介するよ」
「いやぁ、いる所にはいるもんだね〜。」
「いねぇよ」
 いつからか、電話の始まりに意味の無いやり取りをするくだらない癖がついてしまっている。
「ってまぁそんな事はどうでもいいんだけどさ、義男から電話あったっしょ?」
「ああ、あったよ〜。って、さっき着信あったの見て気づいたんだけどね。でもどう考えても寝てるでしょ〜五時半は。まだ余裕で夜の範疇だぜ。失礼にも程があるっつ〜の」
 失礼さで言えばあまりサトシも変わらない所があるけどな、と思ったが話を続けた。
「俺だって義男からって分かってたら出なかったよ」
「で、なんだって? 俺さっき義男にかけたんだけど繋がんなかったんだよ」
「マジで? なにやってんだあいつ……?」
 義男からの電話の内容を伝えた後、たまに義男が起こす不可思議な行動の話をしばらくし、十二時に駅前のコンビニで待ち合わせる約束をして電話を切った。

 洗濯物を干し終えた浩一の身体は、洗い立ての洗濯物よりも汗で湿っていた。部屋に入り時計に目をやると集合時間にちょうど良い時間だった。額の汗を手で拭いながらクローゼットを開ける。無理矢理クローゼットに押し込んだクリアケースは、詰め込みすぎた洋服のせいで、まるで相撲取りが子供用Tシャツを来ている姿のようにになってしまっている。枚数でいえば随分たくさんの洋服があるのだが、どれも着飽きてしまっているので着るものが無い…と浩一は途方に暮れる。仕方なく、その中でもお気に入りのTシャツとハーフパンツを着て外に出た。
「おわ〜ぁぁぁぁ……」
 体液が沸騰しそうな暑さと、気を失いそうな眩しさに愕然とした。
「暑い……」
 言っても仕方ないのは分かっているが、身体が暑いと言うことを命令している。
 出かける時には必須になっているMP3プレーヤーを再生し、何曲か飛ばしてようやくお気に入りの曲がかかった。「こういうプレーヤーのシャッフル機能って明らかに偏りがあるよな」と誰かが言っていたが、まさにその通りだなと思いつつ自転車にまたがった。お気に入りのハードコアの曲はサビに入り、いやがおうにもテンションが上がる。暑さを置き去りにするぜ!と、汗だらけになる覚悟を決め、立ち漕ぎで駅に向かった。






  4

 駅前のコンビニに着いたのは十二時十五分位だった。案の定サトシはまだ来ていない。ひとまず汗だらけの熱した身体をとにかく冷ましたかったのでコンビニに逃げ込む。最近は何かと色々な場所で省エネという言葉を聞くが、この駅前のコンビニだけは違う。冷房の設定温度は十五度以上には上げない、という反体制的なマニュアルを店員が遵守して、涼しいコンビニの伝統を守り抜いているのだろう。この息が白くなりそうな程の涼しさがちょっとした話題になっているようで、たまに「うわ!ほんとだ!さみぃよコレ」なんて声が聞こてくるくらいだ。そこで働いているわけではない浩一には何の関係もない事だが、そんな声を聞くとなんとなく誇らしい気持ちになるのが不思議だった。今日はそんな声は聞こえてこないが、とりあえず水を買い、店の前で一服を始める。タバコを吸い終える頃に遠くにサトシらしき人影が現れた。
 その自転車に乗っていて警察に止められない日はない。というのが自慢の元自転車、現ゴミに乗って、倒れないのが不思議なスピードでゆっくりこっちに向かって来る。伸びっ放しの髪の毛、襟の伸びきった黄色いTシャツ、自分で切ってハーフパンツにした赤いコーデュロイのズボンに雪駄。間違いなくサトシだ。騒音で訴えられたら簡単に負けてしまうであろう音量のブレーキの音を立てて、浩一の目の前に止まった。そしていつものセリフを、歯並びの悪い顔で出来る最高の笑顔で言う。
「ワリィワリィ遅れたね」
 当然悪びれた様子なんてみじんもない。
「そう? この前の六十二分遅刻に比べたら早い方じゃん?」
「あれはもう勘弁して下さいよ?。そんでもってタバコ下さいよ?」
 自転車を止めながら、顔も見ずにサトシは言う。
 浩一達にしてみればいつも通りのやり取りだが、サトシは初対面の人からでもおかまい無しににタバコをもらう。本人曰く「最初が肝心。出会い頭に相手の壁をガツンとぶっ壊しちゃえば、もうソッコウでソウルメイトでしょ」だそうだ。良く言えば社交的でタフだが、悪く言えばあつかましくて無神経だ。嫌われる事も多いが、性格に裏表が無いので意外と友人は多い。
「どうする? もう義男んち行く?」
 目一杯吸い込んだ煙を吐き出しながらサトシが聞いてきた。
「そうね、特にする事もないし。何時でもいいって言ってたから行っちゃうか」
 浩一が答えているそばから、サトシは吸い殻をコンビニの灰皿に捨てに行く。たぶん今の浩一の話は聞いていないだろう。
「しっかし、義男が何時でもいいって言うなんてありえないよね〜」
 タバコを捨ててきたサトシが珍しく真面目な顔で聞いてきた。やはりそういう事に疎いサトシでも同じように思っていたようだ。だが浩一はこの炎天下のもとでサトシとそんなやりとりをしても徒労に終わるだけだ、と思っていたので少しちゃかして答えた。
「まあね。でも俺的にはいつもの義男流の変な理論の発表じゃないかとは思うけどね」
 フフッ。と鼻で笑いながらサトシは自転車にまたがる。
「ま、する事もないし行っちゃいましょうか!」
 やはり浩一の話は聞いてなかった。







  5

 当たり前の事だが平日の昼間の住宅街は人が少ない。
 人が少ない住宅街は時間の流れが普段よりゆったりとしている。時間に動かされる人の姿が時の流れを意識させるのだろう。そんな町中を、転びそうになったのをギリギリで持ち堪えたサトシが急にテンションを上げたため、五分ほど灼熱の中レースをさせられた。疲れと汗だくのTシャツと引き換えに時間を手にした浩一達は、いつもより少し早く義男の家に到着する事が出来た。
 義男の家は家賃三万円、築四十年、六畳一間、駅徒歩二十五分、風呂なしトイレ共同の、家というより倉庫に近いジャンルに入る建物だ。「家賃なんてお金を捨ててるのと一緒なんだから、とにかく安い方がいい」と言う義男の考えに納得はできるが、なかなか実践するのはキツいはずだ。しかしそんな生活に一言も文句を言わず、毎日をつつましく生活している義男の姿はなんとも心強い。本気で「金より時間」と思って実行している人間というのは、周りの人間に少なからずエネルギーを与えている。
 敷地内のいつもの場所……。と言ってもゴミ捨て場の横の単なる茂みに過ぎない場所に二人は自転車を止め、義男に電話をしてみた。だが案の定繋がらないままだった。
「とりえずあがっちゃおうぜ」
 サトシが言いながら、一段抜かしで雪駄をペタペタと鳴らし二階への階段を上がって行く。浩一は顔の汗をTシャツの裾で腹を出しながら拭きつつ、サトシの後について行く。
「義男〜」
 ドアをノックする。薄いベニヤ板で作られたドアは何とも張りの無い音を立てて、家主に来客の訪問を無愛想に告げる。
 部屋の中からの返事はなかった。
 義男がドアの横にある植木鉢の下にスペアの鍵を隠しているのは周知の事実だったので、我が物顔でサトシは鍵を拾い錠を開けた。
「まぁ予想通りだけど、いないね。おじゃましま〜す」
 そう言いながらドアを開け勝手に部屋に入る。こういう事に躊躇が無いサトシならではだ。部屋は当然だが窓が閉めっ放しになっていたので、室外機が室内に設置してあるかのような熱気が全身に浴びせられた。
「あっちぃ〜!」
 ゴン!
 一歩中に入った途端、熱風でサトシが身体をのけぞらせてきたせいで、浩一のおでこにサトシの後頭部が当たった。
「痛ぇよ!」
 浩一はおでこをさする。
「あ、ほんと? あとでゴメンってメール送っとくわ」
「サンキュー」
 突っ込みのないやりとりをしながら浩一達は部屋に入った。
 何の変哲もない、いつも通りの義男の部屋だった。玄関の横にある奇跡的な小ささのキッチン。まるで子供用のおもちゃと同じくらいのサイズだが、義男はほぼ毎日ここで料理をしているのだから慣れの力というのは素晴らしい。そして玄関から全てが見渡せるすっきりとした作りのこの部屋を、さらにすっきりとさせている理由は家具の少なさだろう。小さなちゃぶ台と座椅子、ラジオと冷蔵庫。それ以外の細々とした生活必需品は全て押し入れの中だ。浩一は前に一度押し入れの中を見た事があったが、人に説明するのが不可能なレベルの、駆け出しの抽象画家の描いた絵と見まごうほどの乱雑さだった。「これだったらゴリラの方が綺麗に押し入れを使いそうだな」と義男に言ったら、ゴリラの知能の話を延々と説明された。義男お得意の要領を得ない遠回し過ぎるたとえ話もふんだんに盛り込まれたため、浩一は聞く気が失せてしまい、どうやって押し入れの中の物を管理しているのかは分からなかった。だが、とにかく押し入れのおかげで部屋がすっきりとしている事だけは確かだった。
「あ〜、なんか義男んち来んの久々かも」
 畳に横になりながらサトシが言う。
「いつ来てもなんも変わんないよな、この部屋」
 どこに行ってもすぐに横になる奴だな、とサトシを見ながら浩一は思い、ちゃぶ台の前に腰を下ろし部屋を見渡す。
 主のいない部屋というのはどうにも居心地が悪い。主が抜けてしまった部分を他人である自分が埋めているのだから、間違ったジグソーパズルをはめたままでいるようで何ともムズムズする。しかしそれとは逆に生活感のある自分とは関係の無い場所、というのは本来好奇心をそそられる事もあるのだが……、この部屋は別だ。好奇心がそそられる物が何も無いし、暇をつぶす道具すら何も無い。義男の辞書に「暇」という項目は無いのだろう。
「わかっちゃいたけど、する事ねぇな」
 着いて五分もしないうちに飽きてしまったサトシが畳を引っ掻きながら言う。そのあまりにも早い飽きっぽさと、本当に座る事しかする事の無いこの部屋が可笑しくて、浩一は鼻で笑いながら答えた。
「だな」
 こういう時にサトシは必ず、最近何か面白い事があったかを聞いてくるので、浩一はにやけそうになる顔を隠しながら「次、来るぞ」と予想していた。
「なんか最近面白い事あった?」
 一文字も予想と違わないセリフをサトシが言ったのが面白く、浩一は思わず笑ってしまった。
「……なんだよ何が面白ぇんだよ」
「いや、なんでもない。言っても仕方ないし」
 説明してもサトシがむくれるだけだと思い浩一は話を変えた。
「ま、それはいいんだけど。この前さ『水』の味をうまく説明出来ないもんか考えてみたのよ」
「水の味?」
 またおかしな事を言い始めたなって顔をしてサトシが答えた。だがそれは今までに何度も見てきた顔なので無視して続けた。浩一はこういった無駄な上に答えが出る訳でもない事を考えるのが好きなので、多い時は何時間でも考えている事があった。面白い疑問が出るたびに誰かに話すのだが、一瞬興味を持って考え出すがすぐに投げ出すタイプと、現実的にその質問自体を捉え「そんな状況無い」と、考える事すらしないタイプに分かれた。サトシが後者のタイプである事は分かっていたが、新しい発想が出るかもしれないという好奇心に負けて話してしまった。
「例えばね……、水を飲んだ事がない人がいたとして、その人に水の味を説明して欲しいって言われるのよ」
「飲ませりゃいいじゃん」
 やっぱりサトシはサトシだった。それは当然なのだが、あくまでも水の味を考えるための設定を作っただけであって、実際にそんな状況は無いと浩一も分かっている。答えが大事なのではなく、他人同士がお互いに考えを出し合い、納得のいく答えに向かって進んで行くのが大事なのだ。とにかく見えないゴールに向かって走り出し、急いだり、歩いたり、楽な走り方を発見したり。設定はその為の最初の方向付けに過ぎないのだが、その感覚をうまくサトシに伝える自信が無かったし、伝えたところでそれがサトシにとって面白い事ではない事だってある。それらをふまえた上で、無視して話を続けた。
「とにかく相手は水が飲めない状況なんだよ。その上で飲んだ事のない水の味を超知りたがってる。そんな状況でお前だったらなんて伝える?水の味を」
「そうだな〜」
 今度は素直に考え始めた。中途半端な状況設定よりも、極端な状況を作り上げ端的に答えを求めた方が良い場合もあるんだなと、腕を組んで真剣に考えるサトシを見て思った。
「水だろ〜……。水は水の味だよな、なんて説明すんだあの味?」
 サトシは天井を向いて、ひとり言をぶつぶつ言い始めた。
「正解なんて無いからね。自分が納得出来る答えであればいいんだよ」
 浩一は考える道筋を示したつもりだったが、サトシには上からの物言いに聞こえたようで口を尖らせて突っかかってきた。
「じゃあお前はなんて答えるんだよ?」
「俺は……、そうだな〜難しいよな〜これ」
 実際浩一自体の答えはまだ出ていなかった。しかし、難しければ難しいほど良い問題であり、考えるのが楽しかった。
「とにかく伝わればいい訳だから、味覚で伝える事に固執しなくたっていいんだよ。例えばほら、夏の朝の森の空気を吸ったつららの化け物をさらに冷やして、それを液体にして……。ダメだ、超ムズい!」
「ほらみろ、難しいだろ?」
 答えられないのは自分の能力不足ではないという事が証明されたのが嬉しかったのか、サトシはひん曲がった笑みを浮かべた。
 その後も、水の味をめぐる議論は見えないゴールに向かってしばらく続いた。





  6

 すでに義男の家に来てから二時間が経つ。夏なのでまだ陽は高いが、外にはこの季節特有の、空気がみっしり詰まった濃い夕方を遠くに感じる。そんな網戸越しの外の景色を、話す事がなくなった浩一はちゃぶ台に肘をつきながらぼーっと見ていた。
 その横でうつぶせで寝転がっていたサトシがゴロッと仰向けになり言った。
「水の話ずっとしてたからか、なんか余計にノド乾いたんですけど」
「悪いけどすごくわかるわ、その意見」
 浩一が昼にコンビニで買った水は、容器だけの用済みになってしまった姿でちゃぶ台の下に横たわっている。「水の味会議」で結論は出なかったが、予想以上に白熱した浩一達から、暑さに喘ぐ時間と引き換えに身体から水分を奪っていった。
「見てないから知らないけどさ〜、義男の家の冷蔵庫に気の利いた飲み物があるわけないじゃん」
 サトシが冷蔵庫と浩一を交互に見る。
「まあね。あいつ水筒に水道水入れて持ち歩いてるくらいだからね」
 浩一は水筒の中身を知らずに飲ませてもらった事があったが、あれ以来義男が持参した飲み物をもらうのはやめている。
「そんでもってこの辺って自販機無いし、コンビニも無いじゃん。水道水なんて、この暑さだしお湯じゃん」
「悪いけどすごくわかるわ、その意見も」
 ひとしきりお互いに飲み物を買いに行く役を押し付け合った後、喋れば喋るほど汗が出るしノドも乾く事に気づき、少しでも身体の水分を保持する為に沈黙を選んだ。だが「我慢」という言葉が何よりも嫌いなサトシがすぐに沈黙を破る。
「黙っててもらちがあかねぇ。ちょっと冷蔵庫見てみるか」
 いつの間にかうつ伏せになっていたサトシが額を畳に付けながら言った。冷蔵庫の中には何も無いとは思っていても、期待するのをやめてしまったら本当は入っていても消えてしまいそうな気がして、浩一は無理矢理に気持ちを上げた。
「もしかしたら、もしかするかもだからな!」
「よっしゃ!」
 サトシが勢いよく立ち上がり、困っているおじさんが出すうめき声と同じ周波数の音を発している冷蔵庫に向かった。浩一はちゃぶ台の上に肘を付き合掌した。
「頼む!」
 取っ手に手をかけたサトシは、手品師が最後の締めの前に客に対して見せる時と同じ顔つきをしながら、少し間を持たせる。
「オープーン!」
 ほんの二秒くらいだったかもしれないが、本当に時が止まった。冷蔵庫の中に飲み物や食べ物は何も無く、消臭用に入れているトイレットペーパーだけが、この部屋で一番涼しい場所を独り占めにしていた。しかし、浩一とサトシの時を止めたのはそんな優雅なトイレットペーパーではなく、勢いよく開けた途端に冷蔵庫から滑り出てきた一枚の紙切れだった。
「何これ?」
 サトシが紙を拾い上げた。

『へやからでたらしぬ』……。だって」






  7

 どんな感情も見えない、全くの無表情で読み上げた。
「え? 何それ? ちょっと見して」
 浩一はサトシから紙を受け取る。
 そこには確かに『へやからでたらしぬ』とだけ全てひらがなで、ジェットコースターに乗ったまま書いたような勢いで赤鉛筆で殴り書きされていた。漢字で字を書く時間すら惜しいという気持ちがひしひしと伝わって来る、殴り書きのひらがなだった。
「これは何? ……義男の仕掛けたどっきり?」
 肩に耳が付きそうなほどに目いっぱい首を傾げながら、サトシが独り言用のボリュームで半笑いで聞いて来る。聞かれた浩一も首を傾げ、腕を組み、半笑いで眉間にしわを寄せた。
 とにかく分からなかった。義男という人間は通常とは違った価値基準で生きている。だが、こういう類いの冗談はやらない。しかし、どんな時も予想の裏側から顔をひょこっと出す義男だっただけに、だからこそやりそうだとも感じられた。
「う〜ん、どうだろ、どっきりにしちゃ仕掛けが甘過ぎるよな。だいたい冷蔵庫を開けない可能性だってあった訳だし。けど、なんとなくだけどヤバい感じの字だよな」
 浩一は状況をそのまま話しただけだった。それはとにかく何かを言った方が良いと思ったからだった。部屋から出たらとんでもない事が起こるとは思えなかったが、心の隅の方に『かといって出るのもちょっと怖い気もする……』という気持ちがあったからだろう。
「無視して出てみる?」
 サトシが浩一の小さな恐怖感を見抜いたのか、ニヤニヤとした顔つきで言ってきた。
「え? いやぁ?まぁ、義男が帰って来りゃ全部分かるだろうから、もうちょっと待ちましょうよ」
 浩一は精一杯の余裕をみせた。
「え〜じゃあ飲み物どうすんだよ〜」
「いいタイミングじゃん、さっきのノリでまた色々考えてみようぜ。義男が仕掛けたどっきりだったとして、一番あいつが楽しめないリアクションとかさ」
 こんなくだらないどっきりを仕掛けてきた義男の鼻を明かすアイデアを考えるのが少し魅力的に思えて、浩一はテンションを上げて言った。
「何だよ急に?。テンション高ぇよ」
 サトシは「テンション低くないっすか〜?」と誰かれかまわずよく言っているのだが、自分の意志に反してテンションがあがった人を見ると迷惑そうにする事がある。言われた浩一は急に少し恥ずかしくなったが、それを察されるのが嫌だったのでそのままのテンションで続けた。
「とにかくさ、義男が一番がっかりするパターンを考えようぜ」
「そりゃもう無視して帰る。が一番っしょ」
 自信満々な顔でサトシが元も子もない事を言う。そこで浩一はふと気づき、言い方を変えてみる。
「確かにそうなんだけどさ、せっかくだし何かこう……一盛り上がりしたいじゃない。逆どっきりみたいな感じで」
「逆どっきり? お?、それいいじゃん!」
 浩一は逆どっきりという言葉を聞いて突然テンションが上がったサトシを見ながら「サトシにはわかり易く具体的な例を」と心のメモに書き付ける。
「でもそしたらさ、義男が帰って来た時に俺達がいないってのがやっぱり一番いいんじゃないの? 冷蔵庫すら開けなかったみたいな感じで」
 サトシにしてはもっともな意見だった。ただその場合義男のリアクションが見れないし、何よりも外に出る事への不安が心の隅にある為に頷けなかった。
「まあ確かにね〜。がっかりする義男を見たいよね。でも、かといって隠れる場所なんてこの部屋には無いしな〜」
 部屋を見回しながらサトシは言った。だいたい連絡のつかない義男が何時に帰宅するかも分からず、仮に隠れる場所があったとしても、この暑さでは二人とも脱水症状で倒れているところを義男に発見されるのがオチだ。それはそれでどっきりだが、死を覚悟のどっきりなんてやれない。
 しばらく二人でああでもないこうでもないとアイデアを出し合っていたが良い案は出なかった。なにせ、義男がいつ帰って来るのかが分からなかったから。







  8

 いつの間にか空の色に少しマゼンタが入ってきていた。義男の部屋は物が少ないせいか、ちょっとした光の変化ですら如実に感じられる。傾きかけた夏の太陽は、季節特有の期待感を含んだ焦燥感を出し沈んで行く。
 浩一とサトシは、そんな夏の夕方をぼーっと眺めていた。風流だとかを感じているのではなく、ただ暑さと水分不足と話し過ぎで疲れ果てていただけだったが。
「会いたい〜♪」
 その時、発情期の猫の鳴き声が響き渡ったのかと浩一は思ったが、続けて聞くと今若者達に人気の女性シンガーの歌だった。音の元はサトシの携帯のようだ。サトシはもそもそとポケットから携帯を取り出し、画面で相手を確認した途端「オーッ!」と雄叫びをあげた。
「びっくりした〜。電話かよ……。ってしかも何度も言うけどその曲ダセェから!」
 浩一はインディ系の音楽が好きだったので、お人形さんのように奉られた歌手が放つ商業的な音楽が嫌いだった。中には浩一もグッと来るような素晴らしい音楽もあったが、基本的には受けつけなかった。そんな浩一も最近までは誰がどんな音楽を聞こうがそれぞれの趣味もあるし、楽しんでるならいいかと思っていたのだが、そういう無関心さが今の音楽をダメにしているんじゃないか?と、自分が音楽業界を背負っているかのような勘違いに陥り、今後はダサイものはダサイと言うぞ、と勝手に決めていた。サトシにもその話は何度もしており、その度に「はいはい」と流されていた。そんな、やけに力の入った浩一を無視してサトシは楽しそうに電話越しの会話を始めた。
「おお〜! 電話くれるなんて、マジで超嬉しいんですけど!」
 浩一にはそのサトシのテンションで相手が誰であるのか大体察しがついた。最近お気に入りの子だ。サトシは会う度に違う子の話をするので、誰が誰だか全く分からないままいつも話を聞いていたのだが、今回の子は今までとは違うらしく「こんなに素敵な子に出会った事無い。コレを逃したら一生後悔する!」と、相当惚れ込んでいるようだった。大体いつも身体が軽石で出来てるんじゃないか?っていう位の軽薄さが相手にバレてしまい逃げられていた。しかし今回は、慎重に、サトシなりの誠意を持って接しているようだ。
「嬉しいな〜俺の事覚えててくれたなんて〜」
「いやいやホント、こんなの初めてだよ」
「違うよ〜俊子ちゃんだけだって〜」
「この前だって一晩中考えてたよ〜」
「いやいや出ないなんてあり得ないでしょ」
「奇跡だね。あぁ間違いないね」
「だって可愛さと綺麗さと優しさの同居だよ? 無敵でしょ」
 次から次へとサトシが話す。端から聞いてるとサトシしか話していないように聞こえる。相手がいなくとも一方的に話し続けるロボットと化したサトシの頑張りは滑稽に見えたが、会話が途切れないところを見ると案外相手もまんざらでもないのかもしれない。
「え!マジで? ウソウソ!行く行く。行きます!」
 サトシのテンションがグッとあがり、本人も立ち上がった。
「え〜っとね、十五分……。いや十分で参ります!」
 たまに街で電話越しの相手に本気で頭を下げて謝るサラリーマンを見かけるが、今のサトシはそんなもんじゃない。百度くらいの角度で腰を曲げ頭を下げていた。
「大丈夫だよ。絶対間に合うから! もし俺がいなくても待っててよ!」
 程なくサトシは電話を切り、天を仰ぎながらガッツポーズをした。正確に言うと、しょうゆで煮しめた雑巾の色をした天井を見ながら、笑顔でガッツポーズをした。そして何度もこの出来事の凄さを浩一に説明した。
「という訳で俺、ドロンしますんで」
 サトシは忍者が忍術を出す前の手つきで言った。浩一は電話の子に対する気合いをサトシから嫌というほど聞いていたので、止めることはせず行って来いと犬を追っ払う手つきをサトシにした。その手つきを見もせずにサトシは携帯の着信音の曲を裏声で歌いながら、軽やかなステップでドアに向かって行った。ドアの前でこちらに向き直ったサトシが、何のつもりか分からないが敬礼をしてきたので、浩一もそれに倣い敬礼をした。ニヤリとしたサトシはまた歌いだしながら振り返り、ドアを開けて外に出た。






  9

 義男の家のドアは薄い。本当に薄い。ドア用に使う板なのではなく、本棚の裏板に使う板をそのまま使っている感じだ。以前義男に「ドアが薄いからお前らが出てってから五分くらいたっても、まだ笑い声が聞こえる時があるんだよ」と言われた事があるくらいだ。それなのに、歌いながらドアの外に出たサトシの声がプツッと消えた。MP3プレーヤーのイヤホンが突然抜けた時と同じように。  
 その瞬間浩一は冷蔵庫から出てきた紙を思い出し、這いずりながらドアに向かった。
「サトシ! おい、いんのか?」
 返事は無い。むしろより一層、浩一の周りの静寂は濃さを増した。
「マジかよ……。冗談だろ?」
 覗き窓がついていないので、外に出なければ何も確認は出来ない。だが早朝の奥深い山のもやのように恐怖がまとわりつき、ドアを開けようとする浩一の手を止める。ハッと気づきサトシの携帯に電話をかけるが、義男と同様に繋がらなくなっていた。
「ふざけんなよ……、なんだよこれ……」
 玄関にいてもただ立っている事しか出来ない。浩一は部屋に戻りちゃぶ台の前に腰を下ろす。
「考えろ! こんなことあるわけねぇだろ。考えるのは得意なはずだ……」
 浩一は頭をかきむしり、慌てた気持ちを抑えるために深呼吸をした。
 少し冷静さを取り戻した頭で考えてみても、冷蔵庫から出てきた紙に書いていた通りにサトシが死んだとは到底考えられない。かといって急にサトシの携帯が繋がらなくなった事や、部屋の外に出たとたんに声がぷっつりと消えてしまった事は何かが起きたとしか思えない。だったら一体何が起きたのか?外に出てみないと分からないが、本能による危険回避装置が働き、外に出る事を止める。
「ダメだ、考えて答えが出る問題じゃねぇぞ……」
 数分何かを考えているようで実際は何も考えられていない時間が過ぎた。考えを先に進めるにも情報があまりに少なく、常識的に捉えても非常識的に捉えてもどうしようもなかった。目が覚めたらエジプトらしき場所にいた、という状況と同じくらいどうしていいのか分からなかった。考えすぎて疲れた浩一は倒れるように横になった。すると、一瞬でもリラックスをした事が功を奏したのか「そうか、誰か呼べばいいんじゃん」というアイデアが閃いた。
 あまりにもすんなりとアイデアが出たので、一瞬浩一は事態が他人事に感じられた。しかしその解決策は行動自体簡単だったし、第三者を関与させる事で今の状況も笑い事に変えられる気がした。天にすがる気持ちで携帯の電話帳から、この時間にヒマそうな人間を探し出し、急な話に文句を言わなそうな皆藤に電話をかけた。
「あ、浩一だけど!」
「あ〜どもども皆藤です〜」
「良かった?出なかったらどうしようかと思ってたよ。今忙しい?」
「今は買い物の帰りだよ。ティッシュと醤油とシュークリームが切れちゃったからさ」
「ティッシュと醤油は分かるけど、シュークリームは切らすとかじゃないだろ……。って、そんなことはどうでもいいんだよ!ちょっとさ、説明すんのが面倒で端折るけど、今義男の家で変な状況に巻き込まれちゃってさ」
「何それ?」
「電話で説明するのはややこしいんだよ。とにかく皆藤がヒマなら義男ん家に来てくれればそれで解決すんのよ。ちょっと来てくんない? 頼む!」
「いいんだけど〜、業務用の醤油を買っちゃって重いからさぁ。一旦荷物を家に持って帰ってから行くよ」
「なんで業務用の醤油……。ま、いいや。どれ位かかりそう?」
「う?ん…三十分もすれば行けると思うよ」
「三十分か〜……。まぁいいや。なるべく早めで! 頼む!」
「ほい、わかった。そんじゃ後で〜」
「あ! ちょ、ちょっと待った。危ねぇ〜大切な事言い忘れてたぜ。あのさ、義男の家のドアの前に着いた時点で俺に電話してくんない?」
「なんで? 入っちゃダメなの?」
「ダメダメ! 説明するのがめんどくさいから省くけど、とにかくそのややこしい事態はドアの前からの電話で解決すんのよ。な? 頼んだぞ」
「ま、いいけど。じゃ三十分後ね〜」
 電話を切った浩一はガッツポーズをした。ラクダに似た見た目と、牛に似た口調の皆藤と電話をした後にこんなに爽快な気持ちになった事は今までになかった。むしろラクダと牛の化け物に感謝すらしていた。
「とりあえずこれでオッケーだろ?」
 緊張感から解放された浩一は携帯電話を投げ出し、また横になった。





  10

 浩一は自分の家以外では落ち着かない質なので、人の家で寝た事がほとんど無い。だが眠りの世界へと抵抗なく滑る滑り台を降りて行き、眠りに落ちてしまった。深夜の義男からの電話や暑さ、そして理解不能な出来事の連続に疲労した身体が、浩一を眠りの世界へと引っ張り込んだのだろう。たったの三十分くらいだったはずだがぐっすりと眠れた気がした。そんな中、夢と現実の狭間で誰かに声をかけられ浩一は目を覚ました。
「ちょっと〜なんで起きないんだよ〜」
 目の前にラクダ顔の人間がいる。そしてしっかりと聞かないと「モ? モ?」としか聞こえない声で浩一に話しかけてくる。
 ―なんだ皆藤か。
 ―なんで皆藤が?
 ―皆藤!?
「え! 何でお前ここにいんだよ! 電話しろって言ったじゃんかよ!」
 浩一は思わず皆藤の肩に手をかけ、激しく揺する。
「したよ〜何回もかけたよ〜。着信履歴見てみなよ〜」
 本当にカタカナの「ハ」の字の形に眉を動かし、皆藤は浩一の手を払いのけた。
 皆藤からの着信は五回あった。浩一は携帯の履歴を確認しながら、魂を吐き出さんばかりに深くため息をついた。完全に夢の世界に旅立っていた浩一が悪く、事情を知らない皆藤は全く悪くない。それは十分分かっていたつもりだが、ラクダ顔の人間が一人増えただけでさらに悪化した状況に浩一はイライラした。だが少なからず救いはあった。皆藤はどこに行くにも必ずコーラを持ち歩いていたので一時期「コーラ」というあだ名がついていたほどだ。浩一は皆藤のコーラをみつけ、半ば奪い取るようなかたちで取り上げた。全速力でペットボトルのキャップを回し、半分以上残っていたコーラを一気に飲み干した。
「あ〜全部飲まないでよ〜」
 まるで子供だ。皆藤の見た目とは裏腹に可愛らしい言い方に殺気すら覚えた浩一は、思った事をオブラートに包まずにそのまま言った。
「いいじゃねぇかよ別に。こっちは死ぬほど喉が渇いてんだよ! しかも部屋から出れねぇんだぞ!」
「出れない? どういう事?」
 まだ何も説明をしていないので事情を知らなくて当然なのだが、そんな事情を知らない事にすら腹が立つ。皆藤が持って生まれた才能なのだろう。人をいらつかせる才能……。その才能を生かすとしたら、まずイラつきたがってる人を探さなければならないな……。
 一瞬全然関係のない事を皆藤の顔を見ながら考えている自分に気づき、浩一は馬鹿らし過ぎて少しおかしくなった。そのお陰かイラつきも無くなり、今日起きた事を皆藤に話し始めた。

「―で、冷蔵庫を開けたらこんな紙が出てきたんだよ」
 浩一はあの紙をあまり見たくなかったが、皆藤の前でビビっている姿なんて見せられる訳が無い。「馬鹿らしいよな、義男のどっきりは」くらいのテンションで皆藤に渡した。その瞬間、紙を見た皆藤は思いがけないリアクションをした。
「アハハハハハ! サイコー! よっちゃんサイコー! 何コレ、超おもしろいじゃん!」
「……だ、だろ〜? 義男にしちゃ上出来だよな」
 浩一が精一杯強がって言ったせいで話が微妙にそれてしまった。紙に書いてある事の、儚いが確実に感じられる信憑性を皆藤に伝えるつもりだったのだが、間違った一方通行の道に入ってしまった。どう元の道に戻ろうか考えていると、皆藤がふと素の表情に戻り聞いてきた。
「で? 一体何がややこしい事になってるの?」
 皆藤の疑問はもっともだった。面白いどっきりにかけられた浩一が義男の部屋にいる。そこにはどんな類いのややこしさも無い。
「いやさ〜、確かに面白いどっきりではあるんだけど、義男の電話は繋がらないし……。それにさっきも言ったけど、サトシの件もあるじゃない? ほんと突然声が消えたんだぜ? しかもサトシの電話も繋がらなくなっちゃったし。なんか、簡単にどっきりで済ませられない状況なんじゃねぇかって思ってるわけよ」
 皆藤がえらく神妙な顔で話を聞いていたので、なんとか伝わったのかな?と浩一が思った瞬間、
「アハハハハハ! もしかして浩一君、紙に書いてある事信じちゃってるの? ある訳無いじゃ〜んそんな事〜。なんでドアから出たら死ぬんだよ〜。ドアの前には何も無かったよ〜」
 皆藤は腹を抱えて床を転げ回って笑っている。皆藤が笑えば笑うほど、急降下で浩一のテンションと自尊心は落ちていく。しかしどうにも伝えようが無かった。昨晩の義男の電話から体験しないと分からない、全身をずっと薄氷で包まれているこの恐怖感を。
「そしたら俺、出てみようか? ドアから」
 どう伝えたものかと、ちゃぶ台を見つめながら考えていた浩一をからかうように皆藤は言った。
「違うんだよ!お前は途中からここに来たからこのヤバさが分かってないんだよ!わかんねぇのかな〜、この何かヤバい感じがさ〜」
「だから、俺が出れば分かるじゃない? 考えててもしょうがないよコレは。出れば一発だよ」
 皆藤の言ってる事はしごく真っ当だった。逆の立場だったら浩一はすでにドアから出ている事だろう。だが今皆藤に出て行かれたら浩一は心から困る。一度部屋から出てしまったら二度と戻ってこられない気がしてならない。他にこの時間に捕まえられそうな人間はいないし、またこの部屋で一人の時間を過ごすのは浩一には耐えられなかった。
 立ち上がろうとする皆藤の肩に手をのせ、浩一は「ちょっ……、ちょっと待とうぜ」と言うので一杯一杯だった。気勢をそがれた皆藤はふてくされたひょっとこ顔つきになる。
「え〜、でも待つって何を〜? よっちゃん帰ってくるまで待つって事〜?」
「まぁそれも一つの手だけど……」
「だけど電話繋がらないんでしょ? 何時に帰って来るか分からないじゃ〜ん」
 たしかに義男が何時に帰宅するかなんて、もしかしたら本人も分かっていないかもしれない。もし本当にどっきりだとしたら遅くとも今日中には帰ってくる気がするが、まかり間違って何か本当にヤバい事態に巻き込まれているとするなら全く見当がつかない。むしろ帰って来ない可能性だってある。浩一にしても明日はバイトがあるし、帰らない訳にはいかなかった。
「どうすんの〜?」
 皆藤が空になったペットボトルでちゃぶ台を叩いている。
「どうすんのって、それが分かってたらお前なんて呼ばねぇよ!」
 思わず浩一の口から本音が出てしまった。
「ひでぇ! せっかく来たのになんでそんな事言われなきゃならないんだよ〜。だったら俺もう帰るよ〜」
「ごめんごめん! 冗談だよ冗談! な? とりあえずもうちょい待とうぜ」
 どうしてこんな恋人との喧嘩的なやりとりを皆藤としなければならないのか。浩一は無性に情けなくなってしまった。







  11

 五分ほど無言の時間が流れた。夜に入ったとはいえまだ夏まっさかりの義男の部屋は、入った事は無いが動物園の満員のゴリラの檻くらいに暑いのではないかと思えた。そんなゴリラ熱に満たされた部屋の中で、浩一がどれだけ考えてみても部屋から出る事以外に解決法は無かった。義男がドアを開けるのを期待してドアの方を何度も見たが、ドアは外との境界としてポツンと立っているだけだった。
「あ、こんなのどう?」
 横になってふて腐れていた皆藤が、何かを思いついたのか半身をスッと起こし満面の笑みで話し始めた。
「ドアから出るのがヤバいって言うならさ〜、そっちの窓から出ちゃうってのは? 大丈夫でしょ、下は畑だし」
 言われてみれば確かに義男の部屋の窓の下は畑になっていた。二階とは言っても高さはそんなに無いし、よくよく考えてみたらむしろ遊びで何回か窓から出た事もあった。
「なるほどね。確かにそうだわ。っていうか俺前に窓から降りた事あるし」
「じゃあ話早いじゃん! とりあえず俺が窓から出て、そんでもって回ってきてドアをノックするから! そこで浩一君がドア開ければ問題無いでしょ?」
 すでに立ち上がっていた皆藤は窓の方に歩きながら珍しくまくしたてる。自分の方が優位な立ち位置にいる事が皆藤の気を大きくさせているのだろう。あっという間に皆藤はベランダの無い窓枠に着き、足を掛けた。
「それでは行ってまいります」
 皆藤は敬礼のポーズをとった。
「あ、あ〜大丈夫かね?」
 浩一には皆藤と違い「もしまた同じ事が起きてしまったら」という恐怖があった。
 ドアから……。
 窓から……。
 そこにどれほどの違いがあるのか?
『へやからでたらしぬ』という言葉がこだまになり、何度も浩一の頭の中を巡る。
 だが「やめよう」と浩一が声を掛ける間もなく皆藤は窓から飛び降りてしまった。
 義男の家は二階だが高さはそこまで無い。部屋にいる浩一にも皆藤が着地する音くらい聞こえていいはずだった。しかし耳には何の音も届かなかった。サトシの時と同じ恐怖が、強烈な静寂の中で無音の交響曲となり浩一の頭に響き渡った。
 窓に走りよって浩一は畑を見回したが、夜の畑は灯りが無くよく見えない。だが確実に皆藤の姿は無く、時が止まった海のように見える夜の畑には静けさだけが残されていた。
 浩一は窓から身を乗り出す事に恐怖感があったので、窓の近くから恐る恐る外に向かって声をかけた。
「おい! 皆藤! ……お〜い!」
 返事は無かった。すぐに皆藤の携帯に電話をしたが繋がらなかった。
「うわ、ヤッベぇ……。何これ? 何コレ?」
 一瞬パニックに侵されてしまった浩一は、意味も無く凄い早さで頭を叩きまくっていた。
「落ち着け落ち着け。頭叩いたって何にもならねぇぞ……。とにかく深呼吸だ」
 立て続けに何度も深呼吸をした浩一は、頭がクラクラとしてしまい崩れ落ちるように座り込んでしまった。
「これは、ヤバい。マジで、ヤバい。とにかく義男が帰ってくるのを待とう。何してもヤバい気がしてきた」
 義男もサトシも皆藤も、全員連絡が取れなくなってしまった。義男は分からないが、サトシと皆藤に関してはこの部屋から出た瞬間にだ。こんな事が現実にあるんだろうかと浩一は信じられなかったが、事実、目の前で起きた出来事だ。浩一が信じようが信じまいが、容赦なく目の前で何かが起きているのに間違いはなかった。
 その時、呆然としている浩一の耳にドアのノブが回る音が聞こえてきた。一瞬にして百八十度近く首をドアの方に回し、期待と不安と安堵と恐怖にまみれた顔をドアに向けた。
「皆藤……か?」







  12

 開いたドアの外に、満面の笑みを浮かべた義男がいた。
「お?! ちゃんと来てくれてたな」
 待ちに待った義男が「あけましておめでとう!」と、正月にサンタクロースの格好でふすまを開けて入ってきたかのような、とんでもなくズレた雰囲気で部屋に入ってくる。場違いな雰囲気の義男に浩一は普段通りのリアクションをするエネルギーは残っていなく、ただ呆然としてしまった。
「来てくれてた……? ハハ……。来てくれてたっつうか……。ちょっと待って……」
 待ちに待った状況にも関わらず、頭が全くついて来れず言葉が出て来なかった。
「何か起きた? 誰か来た?」
 玄関で靴を脱ぎながら、矢継ぎ早に義男が意味の分からない質問をする。質問が理解出来ない浩一は、ただぽかんと口を開けて義男を見る事しか出来ない。何をどこから話せばいいのか、浩一の頭の中にある『今日の出来事』という本のページは、もの凄いスピードでめくられていってしまっている。
「何だよ?なんか言ってくれよ」
「いや……。何か起きた?って……」
「浩一……、一人なの?」
 靴ひもがうまくほどけないのか、しゃがみ込んでいた義男が部屋を見渡しながら聞く。
「一人……?いや、さっきまでサトシと皆藤が……」
「え?皆藤も来てたんだ。で、どこ行ったの二人は?」
「……ちょっ! ちょっと待て!」
 頭が整理しきれていない所に一気に義男に話をまくしたてられたので、浩一は思わず大声を出してしまった。靴を脱ぐのに手間取っている義男の動きが止まった。
「これは……。この今日の出来事は……。とにかく義男が仕組んだどっきりなんだよな?」
「どっきり……。っちゃそうだね。一応どっきりだね」
 義男は靴から目を離さずに言った。
「そっかそっか。それは良かった……。って良くねぇよ! 今皆藤に会わなかったか?」
「皆藤? 会ってないけど、なんで?」
 ようやく靴を脱ぎ終えた義男が部屋に入ってきた。
「会ってねぇか……。会ってねぇのか」
 何から説明していいかわからなかったが、浩一が一人で考えるには限界が来ていた。私見を挟まずに、とにかく起きた出来事だけを正確に伝えようと、あらためて昨晩の事から順を追って話し出した。

「ふむふむ」
 ちゃぶ台を挟んで向かいの座椅子に座る義男が、昔のマンガでしか使われない納得の仕方をした。とは言ったもののいつもの義男の相づちだったが。
「ふむふむじゃねぇよ〜、ヤバくない? これ。どっきりだったとしてサトシと皆藤はどこ行っちゃったの?もしかして、お前知ってんのか?」
「ふむふむ」
 義男がさっきと同じ相づちをうつ。浩一は何かを考え出した義男に何を言っても無駄な事を思い出した。
「始まっちまったか〜」
 浩一は答えを求めるのを諦めて、とりあえず義男の考えがまとまるのを待つかと思った瞬間、ふとある考えがよぎった。
「もしかして、サトシと皆藤もグルってことはねぇよな?」
「ふむふむ」
「ふむふむじゃ答えになってねぇんだよな〜この場合は。って、でもグルだったらお前がそんなに考える訳ねぇか」
「ふむふむ」
「そうですね〜。ふむふむですね〜」
 と、浩一が義男の真似をしてふざけた。
「ごめん、ちょっと静かにしててもらえる?」
 口に人差し指のポーズで義男に注意された。
「……」
 浩一は無言で、外国人がよく使う肩を上げるポーズで応じた。





  13

「浩一はさ、不思議な出来事が起きた時に、すぐに信じられる方か?」
 義男がちゃぶ台を見つめながら、質問自体不思議な事を突然聞いてきた。
 ほんの二?三分前に今日一日で起きた不思議な出来事を話したばかりだし、だいたいそんな事を話してる場合じゃない。それなのになぜそんな事を今聞いてくるのか?と浩一は理解に苦しんだ。
「あのさ……。さっき話したじゃん。すっげぇ不思議な出来事を体験したのよ、俺。しかもさっき。何聞いてたんだよ……」
 浩一はなるべくやんわり伝えるつもりだったが、あまりにもな質問の内容に言葉に棘が出てしまい、少し後悔した。だがそれくらいの棘なら義男には全く刺さらない。今までに何度も経験してきた事だった。浩一は少し後悔した事を後悔した。
「そうなんだけど、体験するって事と信じるって事は別だろ?」
 ちゃぶ台の上に置いた義男の手は、なぜか球を描くようなジェスチャーをしていた。本来なら次に話す事の内容に沿った動きなのだろうが、普段から義男はジェスチャーと内容が呼応していない事が多々あるのであまり気にしないようにした。
「たとえばさ……、あ!ビール買ってきたけど飲む?」
 そう言って義男は、そのリュックを背負っていない姿を見た事が無いというほどいつも背負っている風化寸前のリュックからそのままビールを取り出した。
「お?! 飲む飲む! 超飲む……。ってお前さ?別にいいんだけど、それリュックの中ビショビショになってんじゃないの? 水滴とかで。いいの?」
 最近では浩一もなるべく袋をもらわないようにしている。「エコ」という言葉を振りかざして来る輩はどうにも偽善的に見えて嫌いだったが、自分に出来る事くらいはやろうと思っていたからだ。だが義男はそういった事に限度が無く、どれだけ大きい物を買っても、どれだけ大量に物を買っても袋はもらわなかった。ちょっと前に古本屋で二十冊くらいまとめて本を買った時も袋をもらわなかったらしく、五キロくらいの道のりを本を抱えて歩いたのはさすがに大変だったと話していた。その話を聞いた時に、どうしてそこまでこだわるのか?と浩一が聞いたところ、袋を持ち歩く男はなんかかっこ悪いからだと義男は言っていた。
「全然大丈夫だよ。リュックん中なんも入ってないし」
「そっかそっか。そんなら平気だな」
 それならなんでリュックを背負って行くんだ?と本心では聞きたいのはやまやまだったが、そんな場合じゃないと浩一は言葉を飲み込んだ。
「で? 体験と信じる事は別だって?」
 浩一は、この話を終わらせない限り義男の場合一生話が逸れたままになってしまう危惧があるので、本題に戻らせようとした。
「ん? なんだっけそれ」
 本気で一分くらい前の事も忘れてしまう。それが義男だ。たぶん今は、なぜ空のリュックを持ち歩くのかの説明、で頭がいっぱいになってしまっているのだろう。だがどうあっても今はその話を聞くべきではない。仕方なく丁寧に最初から説明した。
「あ?そうそう。それね。聞きたい? 続きを」
 口に含んだビールを顔面に吹きかけてやろうかと思ったが、さすがにそれは酷いかと浩一は寸前で思いとどまり、それをビールと一緒に飲み込み義男のテンションに乗っかった。
「聞きたい聞きたい! だから早く話せ」
 義男はそんな浩一の気遣いを無視して話し出した。
「オーケーオーケー。じゃあ例えばね、浩一が道を歩いてたらいきなりオッサンが話しかけてくるんだ。『私は未来から来た者です』って」
 義男お得意の、突拍子も無い共感しづらいたとえ話が始まりそうだった。実際にそんなオッサンにいきなり話しかけられたら無視して逃げるだろうが、とりあえず無難な合いの手を浩一は入れた。
「ほう。未来ね」
 その合いの手に満足したのか、嬉々として義男は話を続けた。
「そう! 未来! で、今日から三日間に起きる出来事を書いた紙を渡すから読んでくれって、紙を渡してきたのよ。で、読んでみたら何日はこんな天気で、こんな事件があって、こんな事が起きる。みたいな事が詳しく書いてあるんだ」
「ほう。詳しくね」
「それを浩一が読み終わるとオッサンが『三日後に私はまたここに来て君を待つ。その時には私が未来から来たという事が信じられているはずだ。待ってるぞ』なんて言うんだよ」
「ほう。言うんだ」
 全く同じ合いの手をとっている事について義男が何か言うかと思っていたが、全く意に介していないようだった。真面目に話を聞く気がしない浩一は次は少し合いの手を変えてみる事にした。
「その後三日間、本当にそこに書いてある事が当たる当たる。当たるっていうか、書いてる事が全部そのままなんだよ。だから浩一は、すげぇすげぇ! ってビックリして、三日後に待ち合わせの場所に行く事にした。で、行ったらそのオッサンがいて『どうだい? 私が未来から来た者だという事が信じられただろう?』なんて言うんだよ」
「イエス! 未来の人だって信じます!」
「あのさ、ちゃんと聞いてくれる?」
 思わぬところで注意を受け、浩一は思わずシュンとしてしまった。
「そこでだ。オッサンが『ここにこれから一年間に起きるあらゆる事を書いたノートがある。それを一千万円で買わないか?』って言って来た!」
 急な展開で話が面白くなってきた。浩一は義男のたとえ話の世界に入り込んでいた。
「なんか急にそのオッサン、胡散臭くなってきたな?」
「だけどオッサンは、賭け事や宝くじの当選番号なんかも書いてあるから一千万円なんて安いモノだ、なんて言うんだわ」
 浩一には、そんな状況で当然思い浮かぶ疑問があった。
「でもさ、そしたらそのオッサンはなんで自分で宝くじとか買わないの?」
 義男は、その質問待っていました!と言わんばかりの顔で浩一の顔を指差してきた。
「いいね。そこ大事。オッサンにその話を聞いたらね、そのオッサンはこう言うんだ。『未来から来た自分にとってこの時代のお金は全く意味がないのだよ。未来に持って帰っても使えないからね。だがその上で君に一千万円と言ったのは、この「信じるか信じないか」ゲームを面白くする為にね、少し刺激的なスパイスを入れたかったからだよ』ってね」
 少し力技な感じもするが、そこを掘り下げても仕方がないので浩一は話の結論を自分から言った。
「で、それを買うかどうかって事ね?」
「イエス」
 自信満々の顔で急に「イエス」と言う義男が可笑しかった。無意識のうちに先ほどの浩一の「イエス」を真似してしまったのだろう。思わず浩一は笑ってしまった。
「いやいや笑うところじゃないよ。考えて! 買う? 買わない?」
 義男が「イエス」と言った事を浩一は笑っていたのだが義男は分かっていないようだ。それはともかく、面白い話だったので浩一はしばらく考えて答えた。
「まぁ、その三日間の出来事を当てたって事は事実なんだろうし凄いと思うけど、実際に一千万って言われたらねぇ。ほいっと出せる額じゃないし……。買わないんじゃないかなぁ?」
 義男はその浩一の答えを聞くや否や、ヒザをバシッと叩いた。
「だろ! そこだよ! 買わないよな、それは!」
 ヒザを叩いた音が思いのほか大きく、浩一はビックリした。
「そんな不思議な出来事を体験したとしても、そこまでは信じられないんだよ、人間って!」
「まぁ、そりゃね?うん……。まあ……。そうね」
 浩一は色々と言いたい事があったが、興奮してる義男に何かを言っても無駄なので、さっきから気になっていた事を聞いた。
「で、その話はもういいよ。お前さ、さっき一応どっきりだねって言ってたけど、一応ってどういう事?」
「え? 終わりでいいの? ふ?ん。じゃあえ?っとなんだっけ……。あ?一応どっきりってやつだっけ?」
 珍しく義男が口ごもるので、浩一は余計に気になり食い下がった。
「そうだよ! その一応っていうのは何が一応なんだよ? サトシと皆藤の事もどっきりなのか?」
「ちょっと待て! 整理して話すから、落ち着けよ」
 義男は両手の手のひらを浩一に向けて、落ち着けのポーズをとった。そして、また腕組みをして考え込むポーズに入ってしまった。仕方なく浩一は指示通り待つ事にした。








  14

「聞きたい事があるんだけど」
 一分ほど腕組みをして考え込んでいた義男が顔を上げ、何もする事が無くひたすら天井の木目を眺めて待っていた浩一に声をかけてきた。
「冷蔵庫から出て来た紙に『へやからでたらしぬ』って書いてあったって言ったよな」
 浩一は義男の言ってる事の意味が分からなかったが、あまりに真剣な顔で義男が聞いて来るので少し不思議に思った。
「言ったよなって……。自分でどっきりだって言ったじゃん。お前が書いたんだろ?」
「そうか……」
 そう言って義男の表情が少し曇るのが浩一に見えた。不安で満たされた湧き水が、じわじわと浩一の首元までわき上がってくる。
「そうか……。って何だよ? 『へやからでたらしぬ』って書いたのはお前なんだろ?」
 期待する答えが返って来るのを望みながら浩一は聞いた。
「いや、書いた事は書いたんだけどさ……。違うんだよ……」
「何だよ違うって! はっきり言えよ!」
 また腕組みをして俯いてしまった義男にじれた浩一は大声を出してしまった。だが義男はその声に動じもせず、落ち着いた声で言った。
「分かった分かった、言うよ。実はな、俺が最初に書いたのは『へやからでるな』だったんだよ」
『?』だった。本当に浩一の頭の中は『?』だけになり、次の瞬間、突然頭の中で『混乱』という題名のドタバタ劇が始まりパニックになった。
「昨日の夜にどっきりを思いついてね。『へやからでるな』って書いた紙を冷蔵庫に入れておいて、偶然それを見た奴がどれくらい部屋にいるもんか調べてやろうと思いついたのよ」
 パニクる頭の中で、それはどっきりとは言わねぇ! と浩一は思いながらも頷いた。
「で、とりあえず冷蔵庫に紙を入れて準備オッケーってな事だったんだけど、実際に冷蔵庫を開けた時に紙がちゃんと出て来るか見たかったからさ、冷蔵庫開けてみたんだ」
 全く話の先は見えなかったが、とりあえず浩一は言葉を挟まずに聞く事にした。
「そしたら、紙はちゃんと出てきたんだけど……。拾って見たら『だれかへやによばないとしぬ』って文字に変わってたんだよ」
 とんでもない話の内容に浩一の頭はしっかりと反応し、言葉を失った。だがそんなとんでもない話になっているにも関わらず、義男の口調は全く変わらなかった。
「うわ、なんかヤバいぞこれ。って思ったんだけど、死ぬってなんか現実的じゃないだろ?だから半信半疑ではあったんだけどね。けどまあ、とりあえずちょっと怖かったし紙に書いてある事に従ってみようと思ったわけ。そこで、その後でまた紙の文字がどう変わるか分かんなかったけど、そのままどっきりにしちゃおうと思って、紙をそのまま冷蔵庫に入れて浩一に電話したんだよ。面白そうだったから。まぁ……、ついでっちゃなんだけど、何人呼んでも大丈夫そうだったから、なんか起きた時の為にサトシにもね」
 いつの間にか怒りという名のダムが決壊寸前だった。浩一の身体は怒りで硬直してきた。
「で、浩一が見た時には何だっけ? 『へやからでたらしぬ』だろ。そんでもってサトシと皆藤は連絡すら取れない……。ヤッバいね」
『へやからでるな』
『だれかへやによばないとしぬ』
『へやからでたらしぬ』

「ヤッバいね。じゃね?よ! このバカ!」
 ようやく浩一のノドから声が出た。
 続けてありとあらゆる罵詈雑言を義男にぶちまけたかったが、軽々と理解を超えてしまった状況に整理が追いつかず、ただパクパクと口を動かす事しか出来なかった。
「お?前なんで俺を巻き込んで!この……。あ???!!!!」
 下手な腹話術師の扱う人形のようになってしまっている浩一をよそに、義男はゆっくりと立ち上がり「アハハ、ごめんごめん。だからさっきの話でも言っただろ? 浩一だってそんな紙が出てきたって信じないだろうよ。ま、とにかく落ち着けよ。さらに俺バカじゃないし。ちょっとあの紙持ってくるわ」と言いながらキッチンに向かった。
 その為のさっきのたとえ話か……。と、一瞬浩一は納得しかけたが、納得したところで事態は何も好転しないし、信じる信じない別としてどうして浩一を巻き込んだのか……。全く理解出来なかった。
「ちょっ……。ちょっと待てよ。っつうか意味わかんねぇよ。冗談だろ? だって訳わかんねぇぞ。何で冷蔵庫? そしたらあれは誰が書いたんだよ。死ぬ? 俺は書き変えてねぇし、見間違えなんてありえねぇし……。それに俺ら以外に誰もこの部屋にいた事はねぇぞ」
 自分でも何を言ってるのか分からなかった。だが一つ一つ頭にある言葉を出さないと頭がパンクしてしまいそうだった。話すというよりも、頭にある言葉をマーライオンのように口から垂れ流している状態だった。
「だいたい、そしたらサトシとか皆藤はどうなったっつうんだよ? え? 何だこれは? お前は部屋から出るなって書いたんだろ? それが、誰か呼ばないと死ぬ? に? っつう事は……。いやいやいや!だいたいお前今までどこにいたんだよ?」
 義男は紙を探しながら答える。
「今まで? いや読みたかった小説があったからずっと立ち読みしてたよ」
「立ち読みって、お前こんな状況の時に……。いや小説を立ち読みって……。いやそんな事言ってる場合じゃねぇし!」
 故障したロボットになってしまった浩一には見向きもせず、義男はキッチンから拾って来たあの紙を見つめながら座り、ちゃぶ台に置いた。
「ガー!」
 突然義男が目を見開き、両手を上げて叫んだ。
 一瞬白目になるくらい驚いた浩一に、義男は紙を指差しながらゆっくり伝えた。
「どうだ、落ち着いたか? けど、それどころじゃないぞ」
 浩一は当然落ち着いたのではなく驚きで呆然としてしまっていたのだが、そんな事を言える状態に無かった。そして小刻みに頷きながら、目を義男の顔から指の先にある紙に向けた。

『どちらかがへやからでないとしぬ』





  15

「もう無理です……」
 誰に伝えるでも無く、畳に倒れた浩一の口から敬語が出た。
 義男が最初に書いたのは『へやからでるな』
 その後義男が見たのは『だれかへやによばないとしぬ』
 浩一が最初に見たのは『へやからでたらしぬ』
 そして最新の言葉は『どちらかがへやからでないとしぬ』
 口から出た言葉通り、もう浩一の頭はパンク寸前だった。これ以上理解不能な出来事が起こったら耳から脳が出てきそうだった。だが畳に仰向けに倒れ込んだ浩一とは裏腹に、義男は興味深げに紙を見つめていた。
「もう俺無理なんすけど、義男さん」
 諦め半分、投げやり半分。要するに浩一はもう何も出来なかった。
「義男さん、聞いてます?」
 紙を見つめ続ける義男にもう一度話しかけた。
「あ……。うん。聞いてる。でもこれさ、俺が見た『だれかよばないとしぬ』に近いよな」
 あまり慌てていない義男を見て浩一の心の重さが一瞬軽減されたが、もともと慌てない奴なのを思い出してまた畳に沈み込んだ。
「何が近いんすか?」
「いやね……」
 あごをさすりながら義男が話し出した。
「浩一が見た『へやからでたらしぬ』ってのは、部屋に何人いようがとにかく部屋から出た奴は死ぬって事だよな? そして、それは部屋にいれば安全って事になるわけだ、一応。浩一が無事だったように」
「そうっすねぇ」
 浩一は気の抜けた返事しか出来なかった。義男が何を言おうとしているのかなんてサッパリ分からなかったし、分かりたくもなかった。
「けどこの『どちらかがへやからでないとしぬ』ってのは、このまま二人が部屋に居続けたら死ぬって事を言ってるだけで、部屋から出たらどうなるとか、残った方はどうなるとかって事は書いてないよな」
「そうっすねぇ」
「って事はだよ、俺が見た『だれかよばないとしぬ』と同じで、誰かを呼びさえすれば俺が平気だったのと同じように、外に出ても大丈夫なんじゃないかと思うのよ」
「そうっすねぇ……。ん? そうっすか!?」
「そうなんだよ。これなら部屋から一旦出てどうにか出来るんじゃないか? って思うんだ」
 浩一は勢い良く起き上がり、ちゃぶ台に置いてある紙を手に取り、それこそ初めて書いたラブレターの文字校正をした時よりも読み返した。
「書いてねぇよ、部屋から出たら死ぬとは!」
 間違って半袖で北極に旅行に来てしまったが、一瞬にしてハワイに瞬間移動させてもらえた。そんな暖かさに包まれた安堵感を浩一は感じた。興奮する浩一を「まぁ落ち着けよ」と笑いながら言い、さらに続けた。
「これを書いてる奴? がどういう意図だかは分からないし何の保証も無いけど、少なくとも書いてある事に関しての嘘はなさそうだからな。出てみるチャンスかもしれない」
 浩一のパンク寸前の頭でも少々楽観的すぎるのではないか? という疑念はあったが、この状況で生まれたチャンスという言葉の魅力に勝つほどの力はなかった。諦めかけていた現状に差し込んだ一筋の光は、溺れる者の藁以上に心強かった。
 だが、そんな光を一瞬何かが遮ったのを浩一は感じた。
「そう。どっちが出るか……。なんだよ」
 義男が言ったのと同時に、遮った何かの正体が浩一にも分かった。遮られた光がだんだん小さくなっていくのを感じる中で、少しの間を置いて義男が言った。
「ま、ここは俺んちだしな。一日立ち読みしてて疲れてるし、浩一出ろよ」
 その言葉を聞くや否や、畳み掛けるように浩一は話しだした。
「マジで? うわ〜超サンキュー! いやさ、義男が「俺が出る」って言い出したらどうしようかと、すっげぇドキドキだったんだよ?」
 笑顔を崩さない義男を見て、あまりの嬉しさに饒舌になった浩一は続けた。
「これが映画だったらさぁ「いや、俺が出る」とか言うんだろうけど、俺巻き込まれただけだし、残るのは絶対無理って思ってたんだよ?! いや、けど絶対助けにくるからな!」
 握りこぶしを振り回し興奮する浩一を、まだ笑顔を崩さずに見ながら義男は言った。
「いや、出る方と残る方、どっちが安全かは分からないぜ」
 義男はそうは言ったが、浩一は外に出る方が安全なのではないかと心の中で思っていたし、本当は義男もそう考えているに違いないとも思っていた。だがそれを言い出せない自分の気持ちと、外に出るのを譲ってくれた義男の気持ちに、浩一は何を言えばいいのか分からなくなった。
「ん……まあね?」
 うなだれる浩一をけしかけるように、義男は立ち上がって言った。
「まあとにかく、実際にどっちが安全かは分からない。だから無事だった方が助ける。それでいいよな?」
「そ……そうだよな! 助けるし、助けられるぞ!」
 浩一は大声を出して立ち上がり、動力である勇気を確保しようと腕を回して自分を奮起させた。
 そんな腕を回す浩一を見ながら、義男は独り言なのか浩一に言っているのか分からないくらいの声で呟いた。
「まさかこんな嘘みたいな不思議な出来事が本当に起こるんだな。テレビとか小説の中だけだと思ってたわ。でも、もしかしたら誰も知らないだけで、この世界ではけっこうこんな事って起きてるのかもしれないな」
 呟きが耳に入った浩一が義男を見ると、義男は何も無かったかのように笑顔を作り直した。
「さあ! 行動は早い方がいいだろう。行ってくれ」
 普段はそんな事はしないのだが、義男が思いっきり浩一の尻を叩いた。そんならしくない行動が浩一を勇気づけた。
「よし! 行くわ! そんじゃ後でな!」
 無意識のうちにサトシと皆藤に倣い、敬礼をして浩一は歩き出した。
 ドアの前に着いた浩一が振り返ると、義男はさっきと同じ笑顔で腰に手を当てて浩一を見ていた。怖じ気づきそうな自分の為に、笑顔でいる義男の為に浩一は大きな声を出した。
「何があっても助け合おうぜ!」
「おう!」
 浩一はドアノブに手をかけ、一瞬ためらったが深呼吸をし、思いっきりドアを開けて外に飛び出した。







  16

「ん……?」
 浩一は今自分がおかれている状況がまったく理解出来なかった。夏の夜にしか嗅ぐ事の出来ない、空気がかいた汗の湿った匂い。空にはいつも通りの月。そんな至って普通の夏の夜の下、見慣れないアパートの二階の廊下に一人で立っていた。
「どこだ……? ここ……」
 少し周りを見回してみたが、どこにも見覚えが無い。
 照明はチカチカと点滅を続け、ところどころ剥がれ落ちたペンキと、雨垢で汚れた壁を気ままにてらしている。浩一が手を置いた柵は錆び付いてボロボロになり、もう誰の安全も守っていない。
 少々ぼーっとする頭を振り、目の前にある部屋の表札を見た。
「吉田義男……? 知らねぇな。っつうか『ヨシ』が多くねぇか? こいつ」
 隣の部屋の表札も見たが、知らない名前だった。
 見覚えも無く用も無いアパートにいても仕方がなかったし、住人が出て来て鉢合わせるのもばつが悪いと思った浩一は忍び足で階段を下りて行った。そろそろと音を立てずに浩一が階段を下りると、アパートの敷地内にゴミ捨て場があり、その横に自分の自転車が停めてあるのが目に入った。
「チャリがあるって事は、俺自分で来たのか? っつーか、やべぇな。……まったく記憶がねぇぞ。なんで俺こんなとこにいるんだ? 昨日バイトから帰って来て……。寝て……。今、夜の八時半……。は? 八時半? 信じられねぇ!」
 浩一はほぼ半日、全く記憶を失っていた。どれだけ思い出そうとしても何も頭からは出て来ない。空の貯金箱を振ってお金を出そうとしているようだった。
「うわ?やべぇなこれ。なんか病気か? それとも頭でも殴られたか?」
 色々な角度から頭を触ってみたがどこも痛くない。ただ、全身に疲労感はあった。
 浩一の頭には腑に落ちない事が大量にあったが、とにかく家に帰ろうと自転車を引っ張り出し跨がった。錆び付いた自転車は、浩一が跨がるといつものように「ギシッ」と音を立てる。そして、ペダルに足を乗せ自転車を漕ぎ出そうとした瞬間、何かが一瞬頭をよぎった。
後ろ髪が引っ張られたように浩一はアパートを振り返ったのだが、湯気のように一瞬にしてその何かは霧散してしまった。
「まぁ、いいか……」
 そう言って浩一はペダルに置いた足に力を入れ、自転車を漕ぎ出したのだった。

                            終

 

 

2011年5月