メイ・ストーム



               
 少し湿り気を含んだ空気が立ち込めていた。人肌のようにまとわりついてくる外気に、つつじの青臭い匂いを感じた。
 体の中の調節ネジが緩んで、ウエットな気分が一斉に流れだすのを感じる。
 空を見上げると、おぼろな月に似た太陽があった。
 花々がフェロモンを放ち、孕もうとする季節の端が見える頃、つわりのように吐き気を覚えてしまう。生体の中に閉じこめられてしまった意識と生理のバランスの悪さが、危険信号を出すのかもしれない。
 そうなのか、意識というのは、形がないから、とじこめる空間がなければただの空気の粒子で、ばらばらでとらえどころがないのかもしれない。わたしという肉体の隙間に宿った、一ドットの意識が、分裂増殖し、不分明な意識をかたちづくった。意識はコレですという形がないから、不安でしょうがない。時々、あることさえ不安になって、呻吟するけれど確かめるすべがない。
                *
 何もしない、ということに意識的に挑戦しはじめて、一月経っていた。
 もともとが怠け者だから、はじめの一週目ぐらいは具合が良かった。うつらうつら転寝をし、腹がすくと近所の店で菓子パンや稲荷寿司のたぐいを買い、食べた。頭の中は苛立ちを孕んだ温い風が渦をまき、体は月旅行から帰還したパイロットのように実在感がない。二週目ぐらいにはいると、何もしないことに飽きてきた。手軽に時間をつぶす方法は活字を読むことだった。読み古しの本をペラペラとめくってみるけれど、活字の角がブレて飛びまわり、意味をなさなかった。見ているけれど見えていない景色のようなものかもしれない。それでも、字面を眺めているだけで少し気持ちが落ち着いた。
 それからしたことは、立ちあがって二足歩行。手術で長い間寝たきりの人が立ち上がるとき、お立ち台という機器があるそうだ。胃のレントゲン台のようなもので、寝たまま徐々に垂直になるらしい。少しばかり浮いている感じで、夜の散歩に出たけれど、無目的に歩くということは、まっすぐ歩いているうちはいいけれど、交差点にさしかかる少し前から、不安になってくる。右に行こうか左に行こうか、それともまっすぐ突き進もうか。Uターンすることだってできる。と、考えはじめると、なるようになれ、とうそぶいていたのとは裏腹に、先の見えない不安にずぶずぶと沈みこんでいく。そのうちに方向感覚がまるでなくなって、いくら歩いても自分の部屋に辿りつけないような気がして、そういえば、いつも夢のなかでも道に迷っていたと思いあたる。
 夢の中の道は、はっきりと頭の中で描けるほど、鮮明で、確かに記憶のどこかにある景色なのだけれど、どこという場所の特定ができない。大体が暗く淋しい場所で、道は石ころが転がっていて、草が背丈ほどぼうぼうに伸びている道を歩いて行くと、川につきあたり、向こう岸に渡る橋をさがして川沿いの道を歩くのだ。たぶん家に帰ろうとしているのだろうけれど、歩いている道の先が寸断されていて、工事中の立て看板の先は何も無かったりして、帰るべき家どころか、私自身がモクズのように消えてしまう世界なのだ。迷った時は、大きめの道路に出ようと思い、高い建物をめざして歩くと、迷路からは抜けられる。すると、向こうから歩いてくる男の子がよろけながら寄ってきて、お姉さん、と耳元で甘ったるい声を出す。
 お姉さん、ぼく今日帰るところがないんだ。
 お姉さん、ぼく何でもするからさ、お姉さんのところに泊めてくれない。
 男の子は左手に包帯を巻いている。哀れっぽい顔をして、捨て猫のようについてくる男の子が、躑躅より青臭い匂いがして、吐き気を覚える。ポリスボックスの明かりを指さして、あそこに行けば泊めてくれるわよ、と言うと、お姉さんはひどい人だと言って、Uターンして行ってしまった。
 腹が立つ、無償に腹が立つ、私のエリアに男は侵入禁止だと、毒づく。結局、また部屋にこもって、ただぼうと天井を見て過ごし、時々ふっと浮かんでくる記憶の断片をなぞっては、またぼうとする。
 夜、階段のそばに設置された共用のピンク電話がなり響き、誰も受話器をとる人がいない。切れたと思ったらまたなり響き、仕方がないと、部屋を出て、受話器をとる。
 メイです。明日お暇ですか。
 えっ、どなたにおかけですか。
 メイです。メイですよ。
 えっ、メイ、メイってあの高校の時の?
 明日、お暇ですか?
 はい、暇は暇ですが。
 明日、伺います。どう行けばいいですか。
 O線のH駅を降りて、N号線に出て……。
 方向音痴だから、とにかく駅に行きます。十時に駅で待っていてください。
 受話器を持ったまま、メイのことを考えた。メイとは中学の時から同じ学校で、その頃からメイと呼ばれていた。五月生まれだから父親がしゃれて芽衣子と付けたと言った。名前の通りのびのびと育ち、活発な少女だった。私はメイと仲が良かったわけではない。ただどういうわけか、高校で一番人気のないクラブ「地学部」に、メイに強引に誘われ、一年だけ入部した。それから上京するとき偶然同じ列車に乗りあわせた。メイは志望の大学に入って、輝いて見えた。
 社会福祉学科ってなにを勉強するの、と聞くと、あなたの行く文学部って地学部より退屈そうじゃない、と言われた。
 なぜ突然、メイはやってくるのだろう? 理由がまるで思いつかないのに、私はメイのことをずっと待っていたような気がした。
 明日、五月の嵐がくるでしょう。
 ラジオのお天気ニュースが流れていた。
 今日が何日の何曜日かわからないぐらい、部屋にとじこもっていた。
 窓を開けても隣のアパートのモルタル壁しか見えない。夜になると二階の住人の明かりが壁に映り、遅くまで多人数で騒ぐ声が聞こえた。
 ずっと、誰の目も気にせず自由な時間を持ちたいと思っていた。
 自由な時間というのは、何もしない時間ということだろうか。本当は、私は何がしたかったのだろう?
 高所恐怖症なのに新しい高層ビルが建つたびに最上階に上った。夜の展望室から眺めると、暗い空の下に灯りの散乱が広がっていた。ひとつひとつの煌きに、それぞれのドラマがあるのだろう。それにしてもなんてちっぽけな世界だろうと思うと、エレベーターが急降下するみたいに、底無しのニヒリズムに落ちていった。
 それから、なにかをするということに嫌悪を感じた。女らしく装うこと、男友達と楽しい時間を持つこと、食べること……すべてに嫌悪を感じた。
 ただごろごろと寝転がり、頭の中がからっぽで、それが心地よくもあったのが、だんだん煮凝りのように固まって、眠っても眠っても癒されず、怖気立ち、吐き気さえ覚えはじめた。何もしたくなかった。望むことは、自分も知らないうちに消えてしまえばいいということ。                *
 朝、大気の重さを感じた。湿気を含んだ粒子が、憂欝な気分にさせた。起き上がったものの、魂が抜け出たように空洞で、自分の体を眺めまわした。ふやけたボディは知性を持たないダブダブの脂肪の固まりだった。
 おぞましいヤツと侮蔑しながら、その自分とアクセスしている別の自分を意識した。
 子供の時、夜寝ていて、歯が疼いた。どの歯が痛いのかわからなかった。私は、舌で一つ一つの歯をさわった。はっきりした答えは出なかった。自分で自分の痛みを確かめられないフラストレーションが増大し、私は叫び声をあげた。
 そうなんだ、意識が悲鳴をあげている。このぐうたらな体から出してくれと。
 私は耐えきれず外に出た。十時にはだいぶ間があった。路地を抜け学校のグランドに行った。空間があった。私はほっとしてそこに屈んだ。暑い風が吹いていた。青々と茂った樹木が髪を逆立ているようだった。私は土ぼこりの舞う地面を見つめた。
 私の足は当然のように地べたに張りついていた。どうしてだろうと思った。蟻の行列がくねくねと繋がっていた。私は滑稽な想像にとらえられた。巨大なボールに張りついた蟻の群れ、その一匹一匹の顔がマンガチックにズームアップされる。そのそばで、屈んで蟻を見ている私が居て、それを笑って見ている誰かがいる。
 私は歩きはじめ、駅に向かった。駅前の小さな商店街を通り、三角州のような駅前広場に行った。キヨスクの隣の花屋の前に並べられた鮮やかなパンジーの鉢植えに視線をとられ、近づいてよく見ると、薄い花びらは張りがなく、気怠くまるまっていた。
 ネェーあんたたち、ここに並んでいる理由がわかる? と聞いてみたくなる。
 強い風が吹いてきて、馬鹿々しいというように花は一斉に揺れた。
 あんたはイカレている。あんたは、魚屋の鮪の中トロにも、肉屋の豚コマにも、そうやって聞くのかい。
 パンジーの嘲りを受け、私はしょぼくれる。風が音を立てて渦をまき、髪の毛をかきまわす。腐った排水溝の匂いがして、たまらなく居心地が悪い。もうすぐ十時、メイがくる。
 十時を過ぎて、一台、また一台と電車をやりすごす。三十分経過、電車を間違えたのだろうか、四十分経過、具合でも悪くなったのだろうか。来ないのかもしれない。メイは、一方的に、突然に、来るって言った。来られない事情ができたのよ。連絡できない事情があったのよ。
 悶々とする、この種の苛立は、私のなかにある意識、正体不明の意識と交信するのに似ている。
 二時間経過、わたしまーつーわーという歌が流行ったっけ、いくらだって待つことはできる。何もすることがないから、待つという理由のある時間を持つだけで、安心できた。
 忠犬ハチ公だって、他に用はなかったんだ。だから一日だって、何日だって待つことができたんだ。
         *
 改札を通ってメイらしき人が近づいて来た。半信半疑でメイらしき人を見ると、二ヵ月前に別れたそのまま、すくすくと伸びたメイが立っていた。
 ごめんね、待たせたでしょ。メイの汗の匂いがした。メイは、のど渇いたあー、と言い、旧知の友のように私の腕にしがみついた。 私はメイとこんなに親しかったのだろうか、と不思議な面持ちで駅前の喫茶店に入った。
 すっごい良い話し、嘘みたいな話しがあるの。
 メイはプリントした紙を広げて話しはじめた。
 黙っててもお金がはいってくる。AはBと契約して、BはCと契約して……。それってネズミ公じゃない。
 私の頭の回線はつながらない。二ヵ月という月日がメイには二年に相当する変わり様。楽しく生きなければ、そんよ。お金がなければ楽しくないわ。田舎出の貧乏学生なんてまっぴらごめん。
 …消去、消去、全部消去。なに、この非現実な結末は。ああ、馬鹿々しい、真面目になんか生きてやるもんか。
 現象世界なんて、似非芝居。
 つつじの青臭い匂いがメッセージをつたえる。
 生殖せよ、生殖せよ、そして造反せよ。メイ・ストームのように。

  97年5月8日