モンローウォーク

 

 青い小波と白いスーツの女が交錯していた。
 僕の視点は画面の外側にあって、それを見ていた。女の声は聞こえないのに、僕には女が何を言っているのかわかった。たぶん、グットバイ。
 女は白いヒールとくびれた足首を見せて去って行く。スリムなスカートの後が割れ、その上の脹らみが軽やかなメロディを奏でる。
 僕は一杯目のビールを飲み干した後のように心地よく、ほんの少しもの悲しい気分になる。そして女のお尻の残像を追いながら、遠い昔、胸ときめかせた日を思い出すように、いいなあ、と呟く。
 もしかしたら、僕の幼児体験で、ポカポカと陽気のいい日に、なぜかお天気のいい日じゃなければいけないのだけれど、沢山の女のお尻を眺めた記憶があるのかもしれない。僕は、しばし呆然とし、心地良い余韻に浸りながら、青い水面を見ている。
 ガックンと衝撃を受け、僕は気がつく。僕の脳の九十パーセントはまだ目覚めていない。ここはどこだろう。僕は遊園地のコーヒーカップから下りた時のように居場所が分からない。それなのに、なぜだか嗅覚だけが正常のようで、つーんと潮の匂いを臭いだ。
「幸せな奴だな。カオルはTP0関係なく眠れるもんな。そこいくと僕なんか、匂いの染みついた枕持たなきゃ眠れないっていうたちだから」
 僕はまだ半分ぐらいしか目覚めていない。夢と現のギャップの中でしどろもどろだ。もしかして、僕は実人生より夢の中での方が一生懸命生きてるのかもしれない。なぜかというと、寝る前の疲労より目覚めの時の疲労の方がずっしりと重い。だけどその重さが快くもある。
 僕は沈みこんだ体を起こし、大きく息をした。
「カオル、口開けて涎流してたぞ。いい夢みたんだろ」
 洋平が言う。
「ああ、なんだかわけがわからないけど、幸せな夢だったよ」
「女の夢か」
 僕は曖昧に頷きながら、煙草を逆さにくわえ、フィルターに火をつけていた。
「ふられるのは慣れてるけどさ、こういう余韻のあるふられかたしてみたいな。第一に女がとびきりの美人で、場所が海辺のティールーム」
 洋平はしばらく黙りこんでいたかと思ったら、険しい声で言う。
「くだらないさ。女なんて」
「洋平、おまえ、女に惚れたことないのか?」
「ああ、そのまえに、自分に惚れなきゃな」
 相変わらずキザなことを言うなと思いながら、スラリと伸びた肢体、ギリシャ彫刻を思わせる端正な顔立ちの洋平が言うと、様になる。
「美人のおふくろと姉きを持つと、女の見方がちがうかもな」
「いまのところ助手席に乗せる女はいない。だからお前が乗ってるんじゃないか」
 僕は少し血の巡りがよくなるのを感じながら、洋平の横顔を見た。彫りこまれた顔の輪郭が影絵のように浮かんだ。
 僕はイタズラ気分で、洋平の遊んでいる左手を握った。
「カオル、おまえもか。十年来の友を失いたくはない」
 僕は笑いを押し殺しながら言う。
「結構いるんだぜ。そーっと手なんか握ってくる奴。何度か危ない目にあってさ、ホモに目覚めたりして」
「おいおい、やめてくださいよ。ゾクってきましたよ。カオルみたいに女なら誰でもとは言わないけど、女は大好きですよ。ただね、けばけばしいアピールだけの女なんて、ペンキ塗りたての看板みたいなもんですよ。うっかり触りでもしたら後始末が大変ですよ」
「うまいこと言うな」
「おふくろと姉きの舞台裏見てるだろ。散らかった化粧品、汚れた下着、はては生理用品の残骸……。内臓に響くんですよ。脂身食いすぎたみたいにですね、体の芯から不快になる。僕はどっちかというと、そういう類いの女より、本音で生きてる、うらぶれた女が好きなんです」
「どうかな、そういう女は恥じらいの美学がないだけだよ。殺伐たるもんだよ、そういう女は」
 僕は思っている。つまりは洋平の方がロマンチストなのだ。低能でうらぶれた女なんて、本当に人格なんてない。あるのはセックスだけだと思う。そう思いながら突進していく男なんて哀れな存在だと思う。なんにだってさかりがあるんだよ。雄は雌に突進するというプログラムができてるんだから。
 月明かりが差していた。崖っぷちの細い道を僕と洋平は歩いた。潮の香が風に乗って皮膚を撫でていく。下を見下ろすと小さな入江が見え、漆黒の水面に釣り舟が数隻浮かんでいる。画布の中の景色のように静寂だった。
「カオル、こんな寂しいとこよく知ってるな」
「夜中かまわずギンギラに騒いでいるのは、東京だけだよ。他んとこは、夜になったら真っ暗になって、山も海も空も寝るんですよ」
「人工の灯りがない世界ってのは、恐怖だなあ」
「人っこ一人いない所で、大の字になって星空を眺めてみたいって洋平、お前言ったろ」
「言ったさ。だけど、自然のまっただなかって、圧迫感あるな」
「ちょっと前の人類は、こういうところで暮らしていたんだよ」
 僕は自分に言い聞かせるように言っていた。
 視界が開け、ゴツゴツした岩の連なりと、空とも海とも見分けのつかない真っ暗な空間が広がっていた。星が瞬いている。ああ空があったんだなあ、と僕は胸のあたりがすがすがしくなる。
 灯台の明かりの帯が、闇の舞台にスポットをあてる。
 僕はしばし、しみじみとした気分になり、なぜか涙腺までゆるんでくる。もう少し先に行こうとあせる僕に、洋平が声をかける。
「あんまり急ぐなよ」
「ああ」
 と言いながら、次の瞬間、僕はつんのめりそうな体をやっと支える。
 その時、岩だと思っていた影が動いた。僕は、あっと声を上げた。そして、洋平の肩をたたき、言った。
「あ、あ、あれ、人じゃないか」
「まさか。岩だろ」
 二人でじっと見つめ続け、闇に目が慣れてきたら、それはやはり人の後姿に見える。
「誰だよ。人っこ一人いない所って言ったのは」
 もしかしたら、ヤバイことになるかもしれないと僕は思っていた。見て見ぬふりをして早々にひき上げるか、それとも……。
「警察に届けるのが一番だ」
 洋平が言う。
「バカ、どこに交番があるんだよ。電話ボックスだってないじゃないか」
 僕と洋平は、身投げの現場なんて見たくないよと小声でやりあい、とにかく落ち着いて考えようと言い合った。そして、やはり声をかけるべきだという結論になり、じゃあどちらが声をかけるかでもめ、結局、じゃんけんで決めることになった。
 じゃんけんで敗けた洋平が言った。
「この役は僕にむいてない。自信ないよ。なんて言うんだよ」
「深刻に考えるなよ。軽く世間話でもしてきなよ」
 僕に背中を押されながら、洋平は、いやいや人影に向った。
 洋平の黒い影が屈みこんでいるのが見えた。そしてその時間の長さといったら……僕はイライラしながら待ち続けた。
「驚いたよ」
 洋平が興奮した声で言う。
「ずいぶん長い説得だったね。それで彼は思い止まったわけ」
「彼女だよ」
「嘘だろ」
 僕も驚いたよ、と洋平は話し始めた。
「もしもしとかいうと、そいつふり向いて睨んだんだ。あれっとか思ったよ。もしかしてと思って、胸の辺り見ると確かに二つ脹らんでる」
 洋平は一気にそう言うと、一呼吸置く。
「唖然としてさ、言葉が出なかったよ。そしたら、その娘、なんて言ったと思う」
 僕は、さあ、というふうに首を傾げた。
「こんな夜更けに、お茶でもいかがですかって言うつもり、だってさ。まったく、しばらくは何も言えなかったよ」
「何者だ、その女は。疲れた年増女か」
 洋平は首を振りながら、
「それがさ、最初は暗くて女の顔がよくわからなかったけどさ。ふいと、サーチライトが差して、女の横顔がくっきり見えたんだ。おでこ、鼻、唇……輪郭がさ、なんていうか、あどけないっていうか、可愛いっていうか。それでなんだかふっと空を見上げたら、星が瞬いてたんだ。だから、つい、星がキレイですねって言ったら、その娘、笑うんだ」
「バカだな、そんな状況で、星がキレイもないもんだ」
「じゃあ、どういうんだよ。カオルならどういうんだよ」
 早まったことをしてはいけません。そんなことを言うのもどうかと思うし、
「モーニングコーヒーはいかがですか? ってとこかな」
「そうなんだよ、女がさ、僕の顔まじまじ見て、コーヒーが飲みたいなあって言うんだ」
「それで」
「いいですよって言ったさ。今直ぐっていうわけにはいかないけれどって……」
 たったそれだけのことを言うのに、一時間? 僕は洋平のことをなじった。
 洋平が言うには、彼女とモーニングーコーヒーを飲む約束をした、だから、彼女が身投げをする危険はない、そのことを報告にきたと言い、そそくさと女の方に行こうとする。僕は慌てて洋平のポロシャツの後を掴み、さっさと引き上げよう、と言った。
「僕は彼女とモーニングコーヒーを飲む約束をした」
 洋平は僕をふり払うようにして、崖っぷちの影に向って行った。
 僕は、大きい声で言った。
「勝手にしろ。僕は帰るぞ」
 しかし、と僕は思った。帰るにも、足がない。僕は洋平の車に乗って来たんだ。

 闇の気配が少し薄れた頃、僕と洋平とその女は車に乗り、海岸線に沿って走った。道が大きくカーブした所に、レストハウスの看板が見えた。店が営業しているはずはなかったが、僕らはレストハウスの後に広がる砂浜で開店を待つことにした。
 弓なりになった海岸線の先にぽつりぽつり人家らしきものが見えるけれど、明かりもなく、村全部が死んでいるように思えた。
 女はTシャッにジーンズ、素足にスニーカーという格好だった。こんなところに一人でいるということ自体、おかしな女なんだろうけれど、女が何一つ持ってないということが、僕には不思議な感じがした。
 ついさっきまで、女がなんだ、と言っていた洋平の奴が、妙に女に媚びている感じがして、僕は不貞腐れていた。だから、洋平と女とを故意に避けるような素振りをしていた。僕は、紫がかっていく空の際を眺めながら、溜め息をついた。
 とうとう僕の青春も終わりか、卒業できればの話だけれど、いや、卒業しないことにはどうしようもないのだ。僕は、目を閉じて、三年あまりの月日を回想した。
 家に帰ったのは、数えるほどだった。長くて三月、短い所でも二、三日、誰彼構わずアパート住まいの友人のところに居候した。同棲初日の所帯にもお世話になった。寝る場所がなくて半間の押し入れに頭をつっ込んで寝たこともあった。寒さには強いのだけれど、暑いのは苦手で、蒸し風呂のような夜はいてもたってもいられなくて、ぜんぜん知らない隣の部屋に、枕抱えて押しかけたこともあった。そいつがヤクザ気取りの男だけれど気のいい奴で、それからもたまに遊びに行くと喜んでくれ、こちらが文なしの時によく奢ってくれた。
 あの男、変な女に夢中で、ふられてもふられても、涙ぐましいぐらい女につくしていた。その男のことを女はミツグ君と呼んでいた。女は魔物とはよく言ったものだ。その女、ミツグ君がいないのをみはからって、学歴もない、お金もない、顔がいいわけでもない男をどうして好きになるもんか。ただ便利なだけよ。アンタは、学歴もあるし、家もいいっていうじゃない、と僕に迫ったんだ。僕は一瞬その気になったものの、これはヤバイと思い、ダメ、ダメと逃げた。女がどうしてダメなんだと聞くから、僕は、とにかく今日はダメなんだと言ったら、バカ言わないでよ、男にダメな日なんてないでしょ、と言うなり、首にしがみつき、止めろという僕の声をよそに、体を触りまわり、その手がだんだん上に伸びて、首で止まったんだ。『太い首。首をしめて殺すってどんな感じかしら』
冗談はやめろという、僕の声を無視して、女の長い爪が肉に食い込んだ。それ以来僕は、ミツグ君と会っていない。
 僕は砂の上に体を伸ばしながら、呟いた。
「疲れたな、年かな。こういう生活から足洗って、堅気になるか。帰ったら真面目に講義に出て、卒業するしかないか」
 僕は詩人でもなければヒッピーでもない。単位だけはきちんと取っている。母は僕に哀願する。どうして? 何が不満で家に帰って来ないの。お願いだからルンペンみたいな生活は止めて頂戴。僕は母のことが信用できない。それは、小さい頃の嫌な思い出が頭を離れないからだ。
 ずーっと昔、母は兄と僕を連れて海水浴に行った。夏も終わりの頃なので、土用波で海はずいぶん荒れていた。浅瀬で遊んでいた僕達のところに、巨大な波が襲いかかった。僕の記憶は波に揉まれて明確ではないけれど……僕の網膜には、兄の体をしっかり抱えている母の姿が映っていた。
 水平線で光るものがあった。釣り舟の灯りだろうと思いながら、僕は斜め横のあたりに、洋平と一緒の女の視線を感じていた。潮の匂いを吸い込みながら、僕は眠りの海に揺られ、ひどく重い夢を見ていた。
 夢の中でさっきの女が話していた。投げ遣りで平板な女の声がドラマのナレーションのように響いた。
……港のような気もするの、母と二人、船の甲板に立っていて、船がすこーし揺れているの。どんと何かに押されたような気がしたわ。体が落ちていったの。コールタールのような水面だったわ。クニャリって体が歪むような感じで落ちていった。ただただ真っ暗。真空のどろどろした闇。私、もがきもしないで鉛になったみたいに沈んでいったわ。聞こえるのは自分の心臓の鼓動だけ。
 恐い。あのどろりとした闇が私の足をひっぱるの。恐くて哀しくて……体の中身がすっぽり抜け落ちていく感じ。それ以上恐いものがないと思うと、何を失っても恐くないから、こんな女になってしまったわ。時々、恐さが薄れてくると夜の海が見たくなる。そして、体中が分裂するの。私がいるってこと考えると、難解な数式にであったみたいに訳が分からなくなる。
 女の暗い目が光った。『生まれてくる前の暗い闇のこと、覚えている』と言ったかと思うと女は突然、僕に抱きついた。首に、冷たい指の感触がした。『男の首って太いのね。人を殺すって恐いことかしら』女はそう言いながら力をこめた。冗談はよしてくれよ。そう言おうとしても、言葉が出ない。ふり払おうとしても、体が動かない。女は必死で、指に力をこめる。爪が食いこんでくる。
 なんだこれは? 同じようなことが確かにあった。これは夢なんだ。女は、あのミツグ君の女なんだ。それともこの女は魔物で、しだいに形相が変わって……そんなことを思いながら、いやもしかして本当のことだったら、僕は殺されかけている。まさか……死にたくない。まだ死ぬわけにはいかない、と、がむしゃらな気持ちがわき、女の手首を掴み、払いのけた。それはいやに簡単にできた。そして今度は、僕が女の首を絞めていた。夢中で女の生首を絞め、ただ恍惚としながら、女の白い首に力を食い込ませ、ああ僕は人を殺そうとしてるんだと思い。命をとるなんて案外簡単なんだと思い。女の陶然とした顔のせいか、涙が出そうなぐらい、充実した気分を味わっていた。
 ふと、女の顔と間近に向きあっているのに気づき、女のまつげの海からあふれる水が頬を伝うのを見た。
 僕はぐったり疲れていた。全部夢であることが分かった今も。まるで竜宮から帰ったうらしまの気分で、朝の太陽をまともに見ていた。


 海辺のティルーム。お客は僕と洋平とあの女。空は青いというより白く、波も白金のように光っている。僕は昨日の残りのようなどろりとしたコーヒーを一口飲み。目をしょぼつかせ、戸籍係みたいに女に聞く。
 名前は、年は、住まいは……。
 女は白いコーヒーカップを置いて、ゆったりした口調で言う。
「わたし、自分のこと話すの好きじゃない」
「いまどき無口な女性とは、めずらしい」
「話すこともないし」
「話せないことはあるわけ」
 女は、キッと僕を睨みつける。
「自分のこと話すの、好き?」
 僕は、一瞬言葉につまり、
「そう言われますと……言葉が出ない」
「でしょ」
 女は、ふっと僕の視線から目をそらす。
「自分のこと話すって、恥ずかしくない?」
「どうして?」
「一枚一枚、洋服を脱がされる感じ。わたし……人に見せられるような体してないから」
 夢の中の女と彼女が重なってくる。
「一つだけ聞いていい?」
 僕は憂い零れる女の目の、奇妙な引力にひかれまいと懸命に耐えている。
「君、海で溺れた記憶ない?」
「………」
 女はまた、目をそらし、透明ガラスの向こうの海を見る。
「もう止めろよ」
 洋平が言う。
「僕、彼女送って行くからさ。カオルはどうする?」

「どこへ送るのさ」
「どこって、彼女の帰る場所だろ」
「地獄の三丁目か、止めろ、この女に関わらない方がいい。僕と一緒に帰ろう」
 立場が逆になったと洋平は笑った。
「僕もカオルみたいに、生きてみたいよ」
 駅まで送って行くという洋平の誘いを、僕は断った。
 女は一言、さようならと言った。
        
 海辺のティルーム。女は去って行く。一度だけ後を向き、手をグーパーして、ジーパンのお尻を向けて去っていく。筋肉の動き具合がカッコいい。
 ああ、いいお尻をしていると思う。僕は、なぜかほのかな気分になる。
 ピチピチした女のお尻はいいものだ。
 空は青い、いいお天気だ。
        
一九九二年六月(えん十号発表)