ムーンフェイス


 私は副都心の真新しい病院の十一階の病室にいる。
 窓から見える景色は、青くもない空と箱庭に収められたような家や木々や道がある。ぼんやりとその景色を眺めながら、心は重くも脂っこくもなく、軽いのである。実際体が軽くなっているせいなのかもしれないが、その感じを突き詰めていくと体ではない部分、もっと不可解な部分が奇妙に軽く、空洞化しているような感じなのだ。
 大体に執着が少ないのかもしれないが、花瓶の中の花がしだいに色褪せ枯れていき、しらぬまに花瓶から撤去されているようなもので、そこにあった花がどんな色の何の花で何本さしてあったかなど誰も思い出すものもいないように、近いうちに私は消えてしまうのではないだろうか、と他人事のように思う。
 発病したのは高校の最終学年の時だった。熱と下痢が続き近所の診療所に行ったら、風邪と診断された。診療所でもらった薬を飲んでも熱は下がらず、腹痛はひどくなった。
 高校生活は私にとって楽しいものではなかったが、断片的に鮮やかに残っている場面があった。それがどういう意味を持つものかわからないけれど、その季節季節の風の匂いとか気温や湿度の微妙な変化を体の中の何かが察知すると、記憶の回路に繋がり、過去の場面を思い出した。
 チャイムが鳴り、ざわざわと蠢く人の波。そばに寄ってくる友達がひどく生臭い匂いがして生理なんだなと思ったり、差し込んでくる光に照らされた横顔の産毛に黒くて長いのが混じっているのをじっと見ていたり……と、おかしな情景だけが浮かんだ。体育の時間、土埃りの舞う校庭を五周、千メートルを走らされた後の授業。西日に照らされた教室で、光の帯の中で踊る綿埃を眺めながら、どうしてここに居るのだろうと、眩暈のような感じを抱いたことなどをぼんやりと思い浮かべたりした。
 数学の教師は方程式を黒板に書きながら、「ところでみなさん、そろそろ校庭の桜が脹らみはじめましたね。そこに桜の木がありますよね。桜の花が咲いてますよね」教師が半分背中を見せながらチョークを持った手を止め、薄笑いを浮かべている様子を、今見ているかのように思い浮かべることができる。たぶん教師すらも覚えていないであろう彼が着ていた背広の色や皺のよりぐあい、顔の表情筋、眼球から発散される匂いのようなものまでを含めて……あるいはその時の記憶を自分で脚色しているのかもしれないけれど。彼は言う、おかしいんですよねと、視線を窓の外に向け、なにかを話しはじめようとする時癖になっているのか、瞬きを数回しながら。彼は確かに時々、場違いなことを言った。けれど私は彼の話した言葉を記録していたわけではない。だからこれは彼が言ったというよりも、自分の中に刻印され脚色された言葉なのだと思う。「桜の木はあると言うけれど、桜の花が咲いてあるとは言わない。桜の花は咲いている。いる、なんですね」格好よくすらすらとは言わないけれど、彼は言葉の持つ意味への拘りを生徒たちの前で話をした。私は一番前の席に坐っているにもかかわらず、授業中顔を机の上に伏せて寝ていることが多かった。あるといるがどうしたって? どうして彼は数式を解いている最中に、こんなことを言わなければならないのか。「わたしはある時『ある』と『いる』の違いを考えただけで頭がおかしくなってしまったんですね」彼のわたしという発音には独特のイントネーションがあって、彼がわたしと言うと居眠りをしていても言葉が耳に入ってきた。「それでわたしは数学の教師になったんです。数学は量の世界です。答えがありますから、わたしのような人間には……」彼はシリアスな演技は慣れていないし、似つかわしくもないからそこに照れ気味の所作を少し入れ、視線をそらせるように俯き、軽く咳き払いをする。そして、こんな話は数学の授業とは関係のないことですと言い、止めていた手を動かし、方程式の続きを書きはじめる。彼が教師の中で異質の存在感を持つ理由は、剃髪していたからだった。小さな頭は、痩せた肩の上にマッチの軸を乗せているようにアンバランスな感じがした。彼の濃い睫にふちどられた小さな両眼は、夜の湿地帯のようでもあり、私には彼の眼が怯えた小動物のように見えた。
 いつまでたっても熱がさがらないので大学病院に行って検査を受けた。風邪ではないらしいということはわかったが、病名がわからなかった。入院をして検査を受けた。腸がおかしいというので、内視鏡の検査や、肛門から造影剤を入れてX線撮影をした。恥辱と汚辱にまみれた検査だけでもまいっていたのに、潰瘍性大腸炎という聞いたこともない病名を言われ、単なる潰瘍なのかと思ったら難病指定をされている原因不明の病気だとわかった。薬と食事療法で一月ほど入院し、その後は通院しながら学校に通った。潰瘍性大腸炎という病気の知識はまるでなかった。潰瘍とつくからには、胃潰瘍や十二指腸潰瘍と同じようなもので大変な病気ではないと思っていた。それがもう十年が過ぎ、この病気とこんなに長いつきあいになるとは思っていなかった。
 かくれんぼの鬼みたいに、私は自分の内臓に話しかけた。食べてもいいかい。まあだだよ。私は五臓六腑の感覚に神経を集中し体の中にもう一人の私を持つように、胃の不機嫌さや、腸の蠕動の様子を窺った。
 私は図書館へ行き、分厚い医学全書の索引を引いた。消化器の病気、大腸、あったと思い、千数百ページを捲る時手が震えた。 カイヨウセイダイチョウエンと振り仮名のふられた大きめの文字が目に入った。―近年増加中の原因不明の消化器疾患、読んでいきながら自分の症状と照らしあわせ納得はするものの、その病気について治るという言葉は見当らず、またもう一つ恐れていた死という言葉も見当らなかった。高蛋白の食事をしストレスを貯めないこと、贅沢な病気だなと思った。
 あまり運動もできないので、夜は寝付きが悪く、布団の中であれこれと考えてしまう日が続いた。
 目を開けて闇を見ていると、胸が締めつけられるような不安に襲われた。それは排水溝の中に巻き込まれていく汚水のように、閉塞された闇の中に引きこまれていく恐怖で、私にはそれが死ということに思えた。眠っていても夜中によく目を覚ました。確かに起きているのに、見ている情景が自分の部屋と違っていた。傾いた障子戸や墨絵の襖が見えた。どこなのだろうと私は考えた。確かに見たことのある部屋でありながら、それがどこなのか思い出すことができなかった。私は私が見ている部屋を消そうとした。目を開けて見ている情景を消すことは、目を閉じることだと思い、ギュッと目を閉じた。その部屋が消えることを念じながら目を開けても、襖や障子戸に囲まれたセピア色の部屋は、私をとり囲んだままだった。私はその時、消えるということはどういうことなのだろうと思った。消えるというのはイコール無くなるということだろうか。
 薄笑いを浮かべて話す教師の言葉を思い出していた。私の仮想現実の世界で熱弁を奮うのは、必ずといっていいほど数学の教師だった。「人はあるじゃなくて、いるでしょう。いるということと、いなくなるということを考えたら、頭が痛くなりました。お正月にやる双六がありますでしょう。上がりはどちらにしても死なのです。死というのは言葉ですが、国語辞典にも広辞苑にも本当の意味は書かれていません。偉い学者さんもどう書いていいかわからなかったんですね」
 人が死に、荼毘に附されると、骨や肉は灰と煙になってしまうのかもしれないが、私という気持ちは燃えるものだろうか。私はその状況を想像する。頭蓋骨、鎖骨、肋骨……これが感情という骨で、これが理性という骨で……。

 卒業式間近になって体調が悪くなった私は、式に出られなかった。
 数学の教師は卒業した後も何度か見舞いに来てくれた。いつだったか、どうして頭を剃っているのか聞いたことがあった。
 わたしは雪山で友達を見殺しにしたと、教師は話しはじめた。そこまでは本当の話だった。けれど彼の話の内容は曖昧で不可解だったので、私は勝手に彼の独白劇を作った。
 こんな話をするのは恥ずかしいのですがと、彼は初めて私を真正面に見て話し始めた。
「山道を登っていると、等高線とは違うけれど大気の境目のようなものがあって、そこに至と耳がおかしな風になって……現実の世界からズレた所にいる感じになります。病院のベッドで意識を回復してからずっと、今でもわたしは、いるという感じがつかめないんです」彼はポケットからハンカチを出し、顔の汗を拭いた。「先生、だから頭を剃ったんですか。それで良心の呵責はなくなったんですか」と私が言うと、彼は顔を歪めた。「先生、本当は自分だけ助かって嬉しかったんでしょ。笑いたいぐらい嬉しかったんでしょ」という残酷な言葉を挿入したかったのだけれど、私は気が小さくて、例え思ったとしても言葉にすることは出来なかった。
 その後も私は何度か、入退院をくりかえした。その度に今度はだめかもしれないと思い、死ぬ前にしなければならないことがあるような気がするが、一方では何をしても無駄という諦めが訪れ、結局は体の怠さから無気力に囚われるだけだった。時々ふっと消えるのではないかと思うことがあった。そんな時、消えてしまうことが哀しくもなんともなく、こういう気分でプッツンと消えられたらと思ったりした。日によって気分はかなり違った。ひどく生きていたいと思う時もあった。友達が見舞いに来て、薄幸の少女っていいわねえと慰めの言葉を言う。病室の窓から差し込む光を浴びて上気した彼女達の肌が生々しく、なぜか別人種に見える。体の奥深いところから、じわじわと醗酵してくるものがある。それがどういう感情なのか表現しょうもなく、吐きたいような気持ちになる。彼女達には生きている不安というのが微塵もない。私は一分一秒、命の切れ目の瞬間を待ちわびているかのように、気が付くとそのことばかり考えている。そう思うとざわざわと胸がさわぎ、妬ましく、憎しみさえわいてくる。
 私は偽善者だ。にこにこしていても心のなかでは呪いの藁人形を千体は作りたいと思っている。みんな滅びろ滅びろと、呪文を唱えている。

 S君を初めて見た時から、彼の印象が頭の中から離れなかった。かつて私の回りにいた髪はぼさぼさ不精髭をはやした男子生徒のイメージとはまるで違い、青白いぐらいの顔に切れ長の目と白い歯、スキンヘッドのS君は聖者のように輝いて見えた。内気な私は彼に声をかけることなどできなかった。ある日後ろから背中を叩かれ、驚いて振り返るとS君の笑顔があった。君はどこが悪いのと言うS君の問いかけに、私は答えることができなかった。S君はニッコリと笑い、健康そうに見えるからと付け加えた。私、まんまる顔だから、どこが悪いのってよく聞かれるの。これ薬の副作用で……と言うと、ムーン・フェィスって言うんだろ。僕の頭はさしずめムーン・ヘッドかなとS君が言い、二人で笑ってしまった。それからお互いの病気の話になって、発病したのは十六歳の時だったとS君は話し始めた。「体がだるく疲れやすい、とにかく眠かった。近くの病院では風邪と言われたけれど熱は下がらず、眩暈や耳鳴りもした。健康には自信があったから、あまり心配はしなかったんだけど、そのうち歩くのも大儀になってきて、大学病院で検査を受けて初めて自分の病気がわかった。僕の血液は白かったんだ。血が赤いのは赤血球の血色素が赤いからで、白血球の数は健康な人だと五千から九千だというのに、僕の白血球は百万もあったんだ。二週間ともたないと言われた」「おかしな話ね。あなたは白い血を溢れるほどつくって、私は赤い血をどんどん捨てている。赤い血って毒々しくって嫌だわ。せめて白い血だったら……」いやグリーンとかブルーの血がいいなとS君は言った。
 それからお互いに入退院をくりかえし、ある日S君が死んだということを聞いた。S君は慢性骨髄性白血病で二十一歳で死んだ。私はS君の死に立ちあっていない。けれど私はS君の死の場面だけを考え続けた。そして夢の中で、S君の臨終を見ることができた。
 ほんと、生きているものと死んでいるものがこんなにも違うとは、実際に死体に接してみるまでわからなかった。S君は落ち窪んだ頬に脱脂綿をつめられ、真っ白い顔をしていた。組まれた手に触れると、冷たくつるつるしていて皮手袋に触れているようだった。S君はいくら話しかけても、体をゆすっても答えてくれなかった。どうしてなのだろうかと途方にくれた。その時に自分なりに考えた答えが、S君はこの体の中にいないのだということ、じゃあ彼はどこに行ったのだろう。どこに消えたのだろう。S君の体はここにあるではないか。ねえ、死ぬ瞬間ってどんなだろうね、わかるのかしらね。アッていう感じがあるのかしらね。でも信じられないのよね。今まであったものが、どこに消えるっていうの。私が捨てた紙屑だって、抜けた髪の毛だって爪だって、きっとどこかにはあるのよ。あるものは消えっこないわ。じゃあS君は、魔法にかけられたとでもいうの。
 S君が亡くなってからずっと、私は夢の中でS君と会話をしてきた。S君の趣味はパソコンだと言った。ゲームは飽きたんだとS君は言う。コンピュータと向きあっていると、ほっとするところがある。人には感情があるだろ、気を遣うじゃないか。時々、そういうのがひどく生臭くて、自分も人間には違いないけれど、そういう場面から逃げたいと思う。だからパソコンの画面とコンタクトしていると、気持ちが落ち着く。S君がこんなことを言うかどうか疑わしい。S君は確かに素敵だけれど、やはり病気のせいか神経質そうでぴりぴりしている。とてもこんなスマートな話をしそうにはみえない。けれど夢の中のS君はキザったらしい言葉を並べても、少しの違和感もない。
 今、放射線被爆が問題になっている。VDT(Video Display Terminal)からは何種類かの放射線が出ているというけれど、僕は放射線治療をしているからちょうどいい、と言った。放射線の中にはいろいろあって、例えば物質を電離する電離放射線というのがあって、X線なんかは僕の体を通り抜ける時、僕の細胞を原子単位で分離していくらしい。なんだかその度に体の中がIC回路なみに整理されて、情緒とかいうしめっぽいものが蒸発していくような気がする。
 S君は私に大事にしていたパソコンのソフトを残してくれた。これは本当の話。
 独特な乾いた世界の中で、S君は悲しみを電算処理していた。私もその青い原子の蠢く画面に魅せられた。画面から話しかけてくる気取った声がS君みたいな気さえした。S君の創ったソフトバージョン、ウインドウを開くと本のページを繰るような音がして、パソコンの画面が始動する。その瞬間が好きだと思った。ONにするだけで、死んでいたS君が始動するみたいで。コンニチハという文字が出る。私は身体中からオーラをだして、S君とコンタクトする。画面の奥からS君が一つの答えを見せてくれるような気がする。S君の残したフロッピーには、いろんな言葉がはいっていた。
 よく死ぬ夢を見る。水のなかに落ちていって浮かびあがってこれない。呼吸が苦しくて、胸が破裂しそうになる。いっそのこと早く死んじまえって思うんだけど、なかなか死んでくれない。途切れ途切れのリズム音が流れる画像の中には、簡潔な線で縁取られた毒々しい彩色のS君らしい人物のパフォーマンスがある。S君の口が巨大になり、オーノー、クククルシイノダというカタカナ文字が生きもののように飛び出してくる。生きていると死ぬのが苦しいとか恐いとか思うけれど、死んでみると、生きているほうがよっぽど苦しいし、恐いことなんだ。(存在の重みに耐えられない方は、こちらへいらしてください。この世界は形も重量もありません。あるのは???)
 無駄に年を過ごしてばかりだ。S君より六年もよけいに生きてしまった。病状は慢性持続型で、私の体はステロイドの副作用でぼろぼろになってしまった。特に股関節が歩く度に磨り減っていくから、松葉杖を使っている。そのうち車椅子になってしまうのだろうか。体の健康な部分を破壊しているのがわかっても、生命を繋ぐために薬を飲まなければならない。一週間後には腸を全部摘出する手術をする。ヤクザ者のように切った張ったで生きていく意味なんてあるのだろうか。なんだかどうでもいいような気がする。全身麻酔で意識はないのだろうけれど、腹をさかれ血だらけの臓物をいじくりまわされるのかと思うと、いっそのこと防腐剤でもつめて剥製にしてくれればいいと思う。ああうっとおしい、人間ってどうしてグロテスクなんだろう。体のせいだけでなく、最近食物を見ると吐き気を覚える。油や調味料でぐちゃぐちゃに調理された形を見ただけで、胃袋がジンマシンをおこす。それが口から食道、胃袋と入っていくことを考えるだけで気持ちが悪くなる。私は体の管をいつも空っぽにして風通しをよくしておきたい。体の中を通る風が匂うから。
 今でもS君は私の夢の中に出てくる。S君は言う。傲慢に言わせてもらえば、僕には人の感情が放射線のように見える。戸惑いや苛々の感情線が見える。そういう時はたまらなく身の置き所がなくなる。人の内臓と同じように、人の内面など見たくもない。
 数学の教師が久しぶりに病院に来た。なんだかまん丸い顔をして元気そうですね、と言った。これってムーンフェイスっていうんです。健康じゃないんです。薬の副作用です。彼は相変わらず坊主頭で、卑屈な笑いを浮かべながら窓の外を眺めた。ずいぶん高いね、不安定な所に居る感じがする。わたしの住まいは五階だ。地面から離れていくせいかなあ、最近変な眩暈を感じてね。教師が言ったのは「小笠原の島の中学に赴任する」ということ、そのあとの言葉は汗をふきふき例によって、わたしはと話す彼とのやりとりを私が脚色したのだ。
「地面を感じるために小笠原の島に行きます。わたしは自分が居るという感覚を哲学的に悩んでいるふりをしてきたけれど、単純に平衡感覚機能が衰えているのかもしれないと思い当り、島の中学に赴任することにしたんです」「島流し? 先生はどうして受難者のような顔をして自分を追い詰めるんですか」「偽善者だからだよ」私はそんなにもはっきり言う先生を笑い、どうして偽善者ぶって生きるのですか、と意地悪く追求した。「いろいろ答えを考えたんです。たぶんわたしのDNAが自分をいじめるのが好きで、自分を殺すことを望んでいるのかもしれないが、カッコ悪いけれどわたしは死ぬのが恐いんです。だから君のように、目の前に『死』という人参をぶら下げて走っている人を見ると恐れおおくてね」「好きで人参ぶら下げているわけじゃないんです。私のように免疫異常の病気って今多いんです。S君という白血病で亡くなった友達もそうでした。
 
 S君の残したメッセージは『存在の重みに耐えられない方は……』というはじまりで、免疫異常というのは自分の抗体が自分の組織を敵だと思い、破壊していくというのです。内側から自分を少しずつ壊していくんです。つまり自己の生存を拒否しているのです。『僕たちはすぐれた感性を持つ異人種である。神がそういう僕たちに脅威を持ち、滅ぼそうとDNAに仕掛けをした。だから僕らは滅びる。僕ら以外の人間たちのように、DNAを繋げようとは思わない。破壊しろ破壊しろ、と僕の中枢が叫ぶ。生き延びろ、DNAに支配された人間ども、ただ生き延びろ。僕は神の指令で自己を破壊する。それが一種の快感にすらなっている。僕は僕のものでない肉体も精神もいらない。僕は死ぬまで、ただの入れ物にすぎない。だから存在することが耐えられなかった。神は僕の入れ物を間違えたのかもしれない。そのせいで、僕はものごころついたころから、ずーっと寸法違いの洋服を着ていた気がする』」
 春の風が吹いてきている。地上数十メートルの上から風のうねりを見ている。木々は固いつぼみを少しずつ脹らまそうとしているのだろう。それは恋が始まるような暖かな予感かもしれない。私は以前から感じていた、おかしな感じを確かめようとしている。それは恐ろしく広大で空虚で、私の空間の意識では表現できないのだけれど、たとえれば太平洋の真ん中に針が一本あり、その針の先に立っているような不思議な均衡。空を見続けている時に感じる、漠としたもの。恐れでも悲しみでもないもの。私がここに居ることに繋がっているすべての意味が、私の体に働きかけているのかもしれない。無量の時と、無限の関係とが一瞬に凝縮され、私がここにいる理由を教えてくれているのかもしれない。たぶん、明日は、いや明後日は、私はこの世界にいないかもしれないから。


一九九六年一月(二十一世紀文学六号発表)