脳内風景


 十二月○日午前七時半過ぎ、母からの電話があった。
「父さん、あだたなよ」母の声は奇妙なぐらい明るさを含んでいた。
 郷里の秋田では、脳梗塞のことをを総称して「あたる」という。冬場になって寒くなると、ぼんぼんと面白いぐらい人が倒れる。行き交うひとの会話の中にも、「あの人あだたてな」「あだりなおして死んだどよ」という声が聞かれる。
 母は、大丈夫だと思う、今すぐどうということもないからあまり心配しないで、また後で連絡をすると言って電話を切った。
 その日は、昨日からの雨が降り続く寒い朝だった。私は近くのプールに行き、泳いだ。泳いでいる間は、父の事を考えなかった。けれど、自分の意識の外側にあるもっと深い流れが、自分の体をとりまいてる水のようにまとわりついている感じがした。
 夜、母から電話があった。
「頭の中が、まっ白だど。どんどん白いどごが広がっでいて、だめだがもしれねど」
 今すぐそっちへ行かなくちゃならないかと、私は母にたずねた。
「まず、いいよ。今、Tも来るし、Yも来るて言うがら。一度にみんな来ても後で困るがら、危ないどなったら連絡するがら、覚悟だげしでおげ」
 母の冷静で明るい声が妙に気になった。それから数日して、父の容体が回復の兆しをみせはじめたという朗報と共に母が入院したという知らせを聞いた。
 十二月末日午後三時ごろ秋田のH市に着いた。駅から真っすぐ病院に向かい、受け付けで父の名前を言い、循環器病棟、四階の奥のほうの部屋だと聞いた。エレベーターで四階に行き、ナースステーションを通りすぎて、病室の父の名前を確認してノックをした。部屋に入ると独特な匂いがした。見回しても父の姿はない。名前を言うと、ドアの右側にカーテンでおおわれた一角があり、カーテンが少し開いて、看護婦さんが顔を出した。ベッドの側によると、いつもと変わらない父の顔があって、思わず、「どうしたの、元気そうじゃない」と、場違いな言葉をかけてしまった。本当に、父はどこも悪いようには見えなかった。ただ止むを得ず横になっているだけで、今にも起き上がりそうな気がした。父の口もとがゆがみ、ううう…としぼりだすような声をあげて泣いた。私もつられて涙があふれた。私は父の左手を握り、「大丈夫だよ、すぐよくなるよ。病気が軽くて良かったね」と言った。父の手は熱く、力がこもっていた。
 親子の対面劇を演じている間もなく、病室のスピーカーから(食事がはいります)という声が流れ、(食事の前には、お尻を見てあげたほうがいいよ)という看護婦さんの言葉で、悲劇であるはずの父娘のご対面は一転、喜劇になった。
 ズボンのゴムをひっぱって下ろし、クリーム色の馬鹿でかいオムツカバーを見てたじろいだ。オムツカバーのマジックテープをはがし、紙オムツの粘着テープをはがし、もう一つ男性自身を包みこむようにしている尿とりパットというのをはずした。父の体はずっしりと重く、動かない腰をもちあげるだけで私は汗をかいていた。非常事態においては、嫌悪感とか悲壮感とかいう甘ったれた情緒は必要なかった。それでも父の異性の部分に触れるのにはこだわりがあり、触れないように気を遣い、かぶせるような感じで新しいパットをつけた。
 次の日から、毎朝七時に病室に駆けこむ生活が始まった。
 父の着ているパジャマは、上が着物ふうの合わせになっていて、ヒモで結んでいた。父はそのヒモを、左手だけで器用にほどいた。そして上着を脱ぎ、ズボンを脱ぎ、オムツカバーをとり、つまりストリップをするのである。それが昼の間ならいいのだけれど、夜、ストリップをして布団の上で放尿をするから、看護婦さんが見回りにくると濡れた布団の上に裸でいるのだそうだ。そのせいで父は毎日違う柄のパジャマを着せられ、ベッドの下には、濡れたタオルやオムツカバーが丸めて置かれていた。
 ある朝など、父はベッドの上に裸で座っていて、看護婦さんに叱られていた。同室の患者や付き添いの家族が、笑いながら父を見ていた。顎をあげてゆっくり天井を見回している父の惚けたような顔を見て、私は悲しかった。循環器病棟のことを惚け病棟とも言うらしく、患者の奇行は日常茶飯事だった。今の父には、傷つけられたなどと嘆くようなプライドは無いのかもしれないが、だからといって私は皆と一緒に父を笑うことはできなかった。
「父さん、どうしてパジャマ脱ぐの。なにか言いたいことがあるわけ。言いたいことがあったら言ってよ。どうしてそんな情けないことするの」
 父は、困ったような情けないような表情をした。私は自分の尺度でしか父を見ていなかった。姿形は同じでも、父は昔の父ではなかった。父は時々、あちらがわの人になった。というより、まだ正気でない部分の方が勝っていた。
 父はまた、左手でパジャマのヒモをとりはじめた。私はなかばあきらめ顔で、「いいよ父さん、何回でもとりな、何回でも結ぶからね」と言った。父がとったヒモを、私はなんども結び直した。なんどめかわからないけれど、父がうなりながらパジャマのズボンを下げようとする。「父さん、なにか言いたいわけ。どうしたの、オシッコがでるの」
 私はズボンをおろし、オムツをとり、しびんをあてた。「しーっ、オシッコ、シーツ」十数年前の、子供のオムツをとる時のことを思い出した。オムツで苦労したことはなかった。子供は二人とも一歳半ごろにはオムツがとれた。その時、信じられない音がして、しびんに茶色い液体がたまっていくのがわかった。「父さん、オシッコでたよ。父さん、オシッコでたよ」私は、感情がこみあげるままに泣き、つられたように父も声を上げて泣いた。「よかったね父さん。オシッコがでたんだよ。わかるよね。オシッコがでてるの。そうやって教えるのよ」次の日も完全ではないけれど、オシッコをしびんでとった。「父さん、もうすぐオムツがとれるね、よかったね」父は私が付き添った数日の間に、めざましく回復をしているように見えた。この分では体の弱い母でも付き添いができるようになり、暖かくなる頃には日常生活になんの支障もなくなるかもしれないと思った。 
 父は、内臓、消化器はおおむね丈夫にできていたので、食欲は旺盛だった。食事の時間になると、父はベッドの上で座椅子のようなものによりかかった。ビニールの風呂敷を首に回し洗濯バサミで止めてもらうと、自由のきく左手で風呂敷のしわを伸ばし、スプーンの位置を直して、少し嬉しそうな顔で食事がくるのを待った。隣のベッドのお爺さんは、食事の用意をして食事が運ばれてくるまでの間、ゆらりゆらりと揺れる自分の体を支えるのが大変だった。父の方を見ながら、ぐじゃぐじゃと何か言うのだが、さっぱりわからない。お爺さんもビニールを首から下げている。よく見ると袋の下の方に大きく、燃えないゴミとプリントされている。私は、なるほど燃えないゴミか……と笑いたいのを堪えた。
 父は、左手でスプーンを持ち、あふれるほどのお粥をすくい、上手に食べた。副食も山盛り口の中にいれ、入歯をとった歯抜けの状態で休みなく食べた。私は、あまりの食べっぷリの良さに唖然とした。食後に、薬を五錠ほど左手の平に乗せてやると、少し手をすぼめるようにして、口にいれた。
 父は、食べて動かないので通じが悪くなり、お腹がパンパンにはっていた。時々オムツをはずしてみると、兎のウンコみたいにコロリとしたものが一粒二粒オムツに付いているだけだった。とうとうあれほど食欲のある父が食べなくなり、看護婦さんにお願いして下剤をもらった。しかしそれもあまり効き目がなく、ほんの少ししか出ない。私は、始終父のお尻の穴を眺めて思案する。……そういう自分の奇態を思って可笑しく哀しいが、もう嫌です、とこの場から逃げることもできない。人間の体なんて蚯蚓と同じで、胴体に管がとおっているようなものではないか。食べた物は消化して出さなければならない。絶世の美男美女であれ、便を出さなければ生きていけない。
 肛門とはドイツ語でダム、俗には菊の御紋というそうだ。なるほどと思い、決して良い眺めではないなあと思いながら、せめてこの匂いがどうにかならないだろうか……。賢い発明家が、一粒飲んだだけで便の匂いがシャネルやディオールの香りとまでいかなくとも、かんきつ類の香りにかわるとかいう薬を作り出してくれればいいのにと……考えた。
 三日も便が出ない日が続き、看護婦さんに相談したら、潅腸しましょうと言う。潅腸薬を入れたら軟便になり、続けざまに出る。そのうち父の男性自身は、ゆでたタコみたいに赤くはれあがる。便が出るたびにお湯でふくのだけれども、どうしようもない。折りよく母が来て、父の男性自身を見て、痛そうだと気の毒がり、お湯で洗ってやると言う。手や足ならいいけれど、寝ている人の、局所をどうやって洗うのか? お湯をくんで持っていくと、「皮だがな、ごみだがな、とってやらねばな」と、ぶつぶつ言いながら父の男性自身を掃除している母を、なぜか真正面から見ることができなかった。
 年が明けて、雪まじりの日が多くなった。窓の向こうには白い風が吹き荒れ、ガラス窓にもびっしりと雪の衣がまといついた。もうすぐとり壊されるという古い病院の旧式のヒーターがけたたましい運転音をたてる。父はなぜか分からないが、しきりと壁に吊されたカレンダーを見る。「父さん、今日はね平成六年一月○日。父さんが倒れてちょうど一月だね。父さん、覚えている? 倒れた時のこと」父は、はあ、とうなずきながら眼を潤ませている。私は父の顔を見ながら、もし意志の疎通ができるなら、父さん、今どういう感じ。どんなこと考えてるの、と訊いてみたかった。
 昼食の後のまどろみの中、私は父のベッドの隅で膝を抱えてすわり、遠くから聞こえてくる話し声に耳を傾けていた。
……アサさんっていう名前だ。すらーっとしたきれいなおなごだ。山奥のよ、貧乏百姓の家さ嫁に行ってよ、こども生んでがらすぐ、あだったんだど。
 窓際のベッドの患者に付き添っている奥さんが話を続けた。
……わだしど同級生だ。病院さはいったども、付き添いがいなくってよ。そごの家の婆ちゃんは、昔っから体悪くてねでるし、アサさんのだんなは大工で、しごどやすむわげにいがねぇし。結局しゅうど爺さんがめんどうみだってよ。ひでぇもんだな。まだ三十そごそごで、おなごだもの生理もあるべしな。いやぁ、かなしもんだなぁ。
……アサさんだかどうだか名前なばしらねぇども、そういう話なば知ってるじゃあ。
 と、あいづちをうつ声がして、それがらアサさんなば、なぁんとしたなよ、という話を私は耳をすまして聞いていた。
……けっきょぐ、あるぐごどもでぎねぇくてよ。んだども退院させられだなよ。したども、だんながよ、やさし人でな、アサさんのごど、まいにぢ自分の車さ乗せで、仕事場さ連れで行ったどよ。車さエンジンかげっぱなしにしておいで、仕事の間によ、ごはん食べさせだり、おムツとりがえだりしてだってよ。
 ふと父を見ると、いびきをかいて寝ている。夜は寝ないでさわぐというので、睡眠薬を余分に飲まされているみたいだ。父のはっきりしない頭が、よけい朦朧としている。
 私も頭の芯が外の雪景色のようにぼんやりとしている。うとうとしていると、お医者さんがまわってきた。主治医のM先生、背が高く痩せている。年齢は私より下なのだろうが落ち着いた感じがする。
「Sさん、Sさん、今日は」父は目をあけて先生に愛想をふりまく。「Sさん、手上げて」「Sさん、パー出して」父はことごとく、先生の質問を無視して、ただニコニコとうなずいている。私は、父に向かって、「父さん、手上げて。父さん、おはようは」と幼稚園の面接試験に付き添う母のように促すけれど、父は私の方を見ていない。「先生、わかっているみたいなんですけどね。おはようとか、おやすみなさいとか、ご馳走さまとか、時々はっきり言うんですよ。数も二十まで数えます。じゃんけんもします」医者は笑みをたやさずに、「言葉は理解していません」と言う。「先生、どうして言葉が分からないのに、ごちそうさまとか、おやすみなさい、とか言えるんですか」「Sさんの場合は、意識はあると思います。でも言葉はありません」
 言葉がない? 私は言われている意味がわからなかった。医者はかまわず話し続ける。「勘の良い人なんでしょうね。言葉はわからなくてもその場の雰囲気とかで、なんとなくどういうことを話してるのかわかってるんでしょう」
 私は、同じ脳血管障害の人の発語がひどく不明瞭なのを思い浮かべ、「先生、父は、おはようとかおやすみとか、はっきり言えますよ」「Sさんは、言葉を発生する器官に麻痺はないから、発音はキレイにできると思います。幼児が最初に言葉を覚えるのは、真似でしょう。Sさんは、娘さんが、おはようと呼びかける言葉をまねて、おはようと言ってるだけです」私には、医師が言う父のなかに言葉がないということが、難解な幾何学の証明を見せられたように理解不能だった。 
 医師は父の血栓は心臓からきたと言い、「心臓が多少肥大ぎみになっています。心臓からくる血栓は被害もおおきく、Sさんの場合CTで見ると、左脳、特に大脳皮質など広範囲の脳細胞が死んでいます。一度死んだ細胞は回復することはありませんし、化石化した部分を手術してとる必要もありません。出血は止まってますが、かさぶたが残っているので、それがわるさをすると困るので、かさぶたをとるための注射をしています」「左脳の死んだ部分が、どういうふうに影響するんですか」「一般的にいうと、右半身マヒと言語障害です。それが、細かい部分でどういうふうに出てくるかは、経過を観察しないとわかりません。また一月後に、CTをとります。その結果をみて、理学療法とも合わせてどういった治療をしていくか検討していきます」
 私は、家にある脳血管障害による失語症の本を数冊読んだけれど、ごく簡単なことしか書いていなかった。私が知りたかったのは、病状ではなく、言葉が消えるとはどういうことなのか、今、父の頭の中はどうなっているのかという疑問だった。幸いなことに、今は脳についてのわかりやすい本が出ている。それらを拾い読みしてみると、
……言葉を聞いて理解する〈言語野〉というのは左脳(新皮質)にある。右脳には音楽を聞くときに働く領域がある。メロディは右脳で理解し、言葉も〇・二秒以下に短く区切って検査をすると、左の言語野でなく、右脳で処理される。
……言語学者曰く、話し言葉や書き言葉がコミュニケーションに果たす役割は三〇lぐらいで、言葉以外の言葉というのがある。たとえばアフリカのドラムランゲージは音による通信手段であり、メンデルスゾーンの『無言歌』も音による思想伝達だという……。
 などと、図解いりでいろいろ書かれているけれど、本当のところ言葉を無くした父の頭のなかはどうなっているのだろう? ということは、理解できなかった。
 父の顔を見る。何度も何度も見る。父も私を見ている。しばらく見つめあって、どちらからともなく目をそらす。
「簡単にいうと、突然、見知らぬ国へワープしたようなものです。何を見ても聞いても、言語を理解することはできません」医師の説明を聞いて、私はショック状態になった。どういうこと? ある日突然父は、女房がなにを言おうが、子供がなにを言おうが、見知らぬ国の言葉を聞いているのと同じで理解することができない。自分で何か言いたいことがあっても言葉にすることができない。
 父の頭のなかは信号機の壊れた交差点のように、パニック状態になっているのだろうか? それとももっと恐ろしいことは、言葉がないということは言葉で考えるということができないということで、それはイコール考えることができないということなのだろうか? できの悪い私の頭脳は、こういう理論的なことを考えるのは苦手で、いくら考えても視界不良の脳内風景は見えてこない。
 その時私は主治医の先生に、(言葉を理解し話すことができないというのは、思考力がなくなったということですか? 言葉がなくなっても考えることはできますよね。先生、人が考えるっていうことは言葉で考えているんですか? それとももっと別のもので考えているんですか)というようなことを聞いてみたかったのに、混乱した頭では何も問うことができなかった。
 父はまだ私を見ている。(ねえ父さん、どういうこと。何か考えてる? 自分のこと、分かる?)
 父の目は、いろいろな表情をする、優しい目、虚ろな目、悲しい目、恐怖の目、そのたびに、父は違った人格になっているような気がする。私は、父と向かいあって、目をあわせているのに、コミュニケートできない。父は私と同じ場所にはいないのだ。ふと、父が、他人を見ているような視線をなげる。なにもかも虚しくそらぞらしい、空気がはりつめる。
 父は雄弁だ。よく話をする。独り言も言う。その合間に長いため息がまじる。私は、父の言語を理解することができない。母は笑いながら、何語を話しているんだろう。まるでアフリカの土人の言葉みたいだと言う。時々、朗々とした父の声が、経文のように耳に響く。
 寒さはいっそう厳しくなった。早朝、家の外に出ると最初に眼に入るのは空だった。なぜか、東京よりも空の割合が大きく感じられる。空虚な明るさが一面に広がっていて、そのバランスの悪さが、体の中にも入りこんでくるようで、めまいに似た感覚を覚える。空にはいつも黒い雲があり、日本海のうねりのように荒々しく蠢いている。
 重い、たとえようもなく空が重いと思う。

 東京に帰っても、あの空の情景が頭にこびりついていた。だから、あの空≠ニ思うと一瞬にして思い出すことができた。それは決して言葉でなぞることなどできない風景で、ということは、頭の中には言葉に変換できないイメージがあって、それは口の外に物理的に出る音声言語より、数段深い意味をもつものではないだろうか。
 入院してから三ヵ月、父はリハビリ専門の病院に転院した。まだ立つことも話すこともできない父が、病室の仲間や看護婦さんに見送られて部屋を出る時、蛍の光を最後まで歌ったと聞いた。


一九九四年十二月(二十一世紀文学二号発表)