お月さま


 どろんと居眠りをこいているような夕方だった。ボクはKちゃんのマンションの五階の部屋で、戦いごっこをして遊んでいた。夕焼けこ焼け……の音楽が聞こえてきた。ボクはKちゃんに「帰る」と言った。Kちゃんはつまらなそうな顔をして「もう少し、あと十五分、あと十分、五分だけ……」と言った。ボクはそれでも、帰ると言って重いドアを押し開け、非常用の鉄階段を走った。
 お母さんは、決まりを守らないとうるさいんだ。いっも同じことを言うよ。(アナタガヤルベキコトヲヤラナイノナラ、ワタシモヤルベキコトヲヤリマセン)とか、別の人みたいな顔をして黙りこんじゃうんだ。大変だ。ダッシュで帰らなければ……。
 こういう暗い日は、お母さん、特に元気がないんだ。ボクが息を切らしてわざと「おかえりー」ってドアを開けると、電気もつけない部屋のまんなかに座って、仲のいい人と話をするみたいに空気と向きあっているんだ。
 この間なんか、薄っぺらな黒い影になって、窓の外を見ていたんだ。ボクは背が小さい方だから、お母さんの腕の下に入って「何見てるの」って聞くと「Kちゃんのマンション」「マンション? おもしろい」「ううん、グレーのマンション、窓がいくつあるのかなって」「へえーいくつあったの?……母さん、ボク、図画の時間、ボクの家かいたんだ。コンクリートはクリーム色、木は木の色、地面は土色、ぬり絵みたいにかんぺきに塗って、残ったとこあるでしょ。何色にしようか考えたんだ。だけど、何色にしたらいいか分からないんだ」「空間の色かな? 空気の色かな? そんな色塗れたらステキだね。サトル、絵かき屋さんになったら。お母さんゴッホの描く空好きなんだ」「知ってるよ。耳切った人でしょ。変な絵だよ」「そうかな。ゴッホは空間の色が見えたかもしれない」「どうしょうかな。ボク、絵かき屋さんになってもいいよ。お母さんの描いて欲しいもの描いてあげる」「描いて欲しいもの、一杯ある。空のかたち、宇宙のかたち、命のかたち」「無理だよ、お母さん。難しすぎるよ。だってみんな見えないものだもの」「青い非常階段下りてきたんでしょ。サトル下りて来るかなってじっと見てた。空がね、だんだん色が無くなってKちゃんのマンションの壁と同じ色になって。人が作ったモノと、空とか風とかの置き場所が見えてくる。体の奥の方で誰かがため息つくの。淋しいなあって」
 いつもこんな具合なんだ。お母さん、おかしなこという。でもボク、お母さんと話してると、フワって体が浮きそうな気分になるんだ。
 とにかく早く帰らなければ。ボクはぶつぶつと呟きながら、道路の前で止まった。右を見て左を見て右を見て、走れ。突っ走れ。ボクは、ボクの帰る場所、細長いコンクリートの壁しか見ていなかった。
 ドスンといったのかガクンといったのか、ボクは何だか、ポーンと跳ね上がったような感じがした。少ししてから、ボクは道のまんなかに顔をこすりつけて寝ているのに気がついた。煙草屋の小母さんが、ボクのことを抱いた。ボクは言った。「大丈夫だよ。小母さん。赤チンとバンソコがあれば……」その次に言ったことは「小母さん、ボクの靴かたっぽうしかないよ。捜してちょうだい。ボク帰らなきゃ……」ボクは、そう言ったような気がするのだ。
 ボクはしばらく何が起こったのか分からなかった。人がずいぶん集まっていた。パトカーやお巡りさんもいた。ボクはやっと何が起きたのか分かった。……ああよかった。カマキリにならなくて。
 少し前のことだった。ボクは巨大カマキリに会ったんだ。カマキリって憎めない顔してるんだ。見れば見るほどおかしな顔していてさ、ボクふきだしそうだった。カマキリのやつ、前足上げて突然走りだしたんだ。速いこと速いこと。カマキリの後おいかけてたら、曲がり角から白い車が飛び出して来たんだ。「カマキリ、あぶない」ボク、思わず叫んだ。残酷だよ。カマキリのやつ、押し虫になって道にはりついてた。ボク、カマキリの緑色の羽持ってみたんだ。艶々して、青いはっぱみたいだった。
 お母さんが走ってきた。ボクのことを抱き締めて「大丈夫。大丈夫」をなん回も言った。「怪我してない。痛くない。本当、大丈夫なの」ボクはお母さんの胸にぎゅうぎゅうに抱きしめられながら、どうしたのか一言も言葉がでなかったんだ。 
 それからボクは、憧れの救急車に乗った。白衣を着た小父さんがドアを閉めた時、KちゃんとKちゃんのママの顔が見えたんだ。窓をトントンと叩きながら、Kちゃんのママは口をパクパクさせて何かを言っていた。そのまま救急車が動きはじめたので、何だかKちゃんとKちゃんのママが、後にすっ飛んで消えてしまったような感じがした。
 ボクはお母さんの膝の上に乗って、しっかりと抱き締められていた。「恐かったでしょ。恐かったでしょ」お母さんは何度も同じことを言った。だけど、ボク、ちっとも恐くなかった。だって、とっても不思議な感じがしたんだもの。ボク、浮いたんだもの。お母さん、死ぬ時って飛べるのかな? ボクまだ七年しか生きてないし、お母さんの言うこと聞いたほうだから、天国行けるよね。そう言おうとして、どうしてなのか口から一つも言葉が出てこないんだ。ボクは少しイライラした。
 救急車は小さな外科病院に着いた。病院の中は薄暗かった。白衣の前をヒラヒラさせながら、太ったお医者さんがスリッパをならしてやって来た。「ふうむ、ふうむ」と言いながら触ったり撫でたりして、お医者さんは言った。
「ボクは運がいいぞ。交通事故で救急車で運ばれてくるのは、手足がまともについてないのが多いぞ。ボクは運が強いぞ」
 お医者さんは、お母さんを呼んで話をした。
「レントゲンは異常なし、擦り傷だけですね。ただ話をしないのがショックのためか、脳に異常があるのか分からないから、明日にでも設備のある病院で検査をしてもらいなさい。それから今晩、吐いたり、熱が出るかもしれないから気をつけるように」
 ボクとお母さんは、陰気臭い病院のドアを押して外に出た。救急車は影も形もなく、真っ暗な道路には光った目玉をつけた車が走っていた。ボクには何だか、四つ足で、チーターよりも早い怪獣に見えた。
「お財布持ってこなかった。鍵も閉めてない。シマッタ、シマッタ」と言いながら「いいのよね。サトルが元気でいるんだもの」お母さんはニッコリ笑った。
「憎い車だけど、しょうがない、タクシーひろいましょ」お母さんは、ボクをおんぶしてくれた。だって運がいいんだ、ボクは靴をかたっぽうしかはいてなかったんだもの。 
「サトル重いのね。お母さん、サトルおんぶしたことあったかな」
 ボク、お母さんにおんぶされたことないよ。いつも、ベビーカーで出かけたの覚えている。お母さんの背中いい感じだった。
「お母さん、子供嫌い。でも大人はもっと嫌い。キライ、キライ、人間大嫌い」
 お母さんは、時々おかしくなる。そんなお母さんは、鏡に映った顔みたいに半分だけつりあがって恐い顔になる。
「サトル、生まれてきてよかったと思う?」
 ボクは少し考えた。ほんとのこというと、生まれてきたくなかった。だって、楽しいって思ったことないもの。遊んでいる時だって、楽しいっていうわけじゃない。欲しいもの買ってもらっても、あんまり嬉しくない。ボク、何もしたくないし、毎日つまらないんだ。どうしてかな? お母さん、生き物はみんな死ぬんでしょ。ボク、お母さん死ぬのイヤなんだ。ねえ、死んだらどうなるの。ボク、死ぬのこわいんだ。生まれてこなければ死ななくてもいいでしょ。
「サトル。お母さんのお腹の中にいたときのこと覚えてる」
 覚えているよ。お母さんのお腹、うす暗くて、なまあたたかかった。ボク、覚えてるんだ。ボク、逆立ちしてウンチしてたもの。なんだかいい気持ちだった。ボク、そのまんまがよかったな。  
「苦しいよ。サトルお母さんの首締めてる」
 ボクは何だか体の力が抜けていった。フワフワと雲の上を歩いてる感じで、しめっぽい夜の匂いを感じていた。
 タクシーはなかなかひろえなかった。お母さんは一人で呟いていた。「重い、重い、サトルが重い。サトル、お母さんやめていいかな。人間やってるの疲れちゃった」
 お母さん、馬鹿なこと言わないでよ。人間やめてなんになるの。子供のボクだって、頑張って人間やってるんだからね。
家についた。ドアを開けると薄暗い部屋にお父さんが坐っていた。ボクの顔を見て「サトル」と言って抱き締めた。ボクは、なんだか体の力がぬけた。ああボクの部屋のボクのベットだと思うと、うれしくなってもぐりこんだ。
 
 夢を見ていた。お母さんの白い顔があった。お母さんはボクにささやいた。
「秘密よ。サトル秘密守れる」「守れるよ」「お母さんほんとは人間じゃないの」ボクはまた始まったと思った。お母さんの嘘つき。「お母さん、かぐや姫なの」それがどうしたのとボクは思っていた。
「サトル、ウルトラマンとか好きでしょ。ウルトラマン、宇宙人なのよね。お母さん、ムーンウーマン。でも、できそこないの月女。お母さん、不良品だもの。人間に化けるのも、お母さんに化けるのも、うまくできなかった。ほらね、尻尾があるでしょ」ボク、驚いてお母さんのお尻を見た。金色のフサフサの尻尾だった。嘘だよ。そんなわけないよ。
「とうとうお別れの日がきたわ。サトル元気でね」「どこに行くの、お母さん。ボクもつれて行って」「つれて行けないの」「だめだよ。ボクついて行くよ。絶対ついて行くよ」
 そこは暗いブラックホールだった。掃除機のホースに吸い込まれるように、体がひっぱられた。イヤダイヤダってボクは頑張った。「お母さん、お母さん、助けてよ」ボクはのどが千切れるほど叫んだ。お母さんは、どこにもいなかった。ボクはチクショウって思った。嫌いだ、嫌いだ、大嫌いだ。まるで、ボクがブラックホールの中心になったみたいに、ボクはお母さんを憎んでいた。ボクは体じゅうびっしょり汗をかいていた。
(お母さん、恐い夢見たんだ。いくらお母さんって呼んでも、お母さんいないんだ)
 ボクの頭の部屋は、壊れた玩具で一杯だった。ボクの玩具が壊れているんじゃない。きっと、ボクの頭が壊れているのだろうと思った。

 次の日、ボクは、お母さんと大学病院に行った。お母さんは「病院嫌いよ」と言って、痛いぐらいボクの手を握った。
 ボクは、CTとかいう人の体を輪切りにしそうな機械に乗せられた。ボクは思っていた。ボクは何も言えない。だからボクの気持ちを言えないぶん、しっかりと今起こっていることを見て覚えておこうと……。
 検査室から出てくると、お母さん真っ白な顔をして坐っていた。「サトルが見つからないの」お母さんはボクに言った。「サトル、お母さんオニ嫌よ。(もういいかい)って言つても(まあだだよ)ばかり。サトル、お母さんから逃げだすんでしょ。今度はお母さん隠れる番よ。お母さん絶対見つからないから」
 お母さん、かくれんぼなんかしてる場合じゃないよ。ボク、ここにいるじゃないか。おかしなこと言うなよ。お母さんはおかしいのだとボクは思った。そんなときのお母さんの目は、中心に寄っていてボクなんか見てないんだ。
「お母さんが子供の頃、お正月にオニが来るの。もじゃもじゃ頭で牙の出た赤鬼、青鬼。出刃包丁持って、泣く子はいないか、悪い子はいないか。お母さん、屋根裏の寒くて暗いすみっこに隠れてた。鬼の声がするたび、恐くて震えた。お母さん、見つからなかった」
 お母さん頼むよ。ボクのこと見てよ。ボクだけ見てよ。
「お母さん、そのときからずうっと隠れてた。だからお母さん、子供のまんま。世の中にあわなくなった」 
 ボク、入院しなくちゃいけないんだ。お母さんしっかりしてよ。
 しばらくして、お母さんは身の回りのものを持ってくると、ションボリ帰って行った。ボク、言いたいこと山ほどあった。お母さん。お母さん。心のなかで何回も呼んだよ。どうしてか、ボク、ぞっとしたんだ。ボクと一緒じゃない時、お母さんいないんじゃないかって馬鹿なこと思ったんだ。ほんとにボクがいないと、お母さん消えてしまうのかもしれない。その時さ、ボク、プッツリとかいう不思議な音聞いたんだ。ボク尻尾が切れたのかと思ってあわてた。あの音、きっとお母さんとボクの赤い糸が切れた音かもしれない。
それから……ボクは、ずっとお母さんを待っていた。
 お母さんは来なかった。ボクは、病院のベッドで退屈していた。看護婦さんが本を持ってきてくれた。宇宙の本だった。本を読むのは事故以来初めてだった。ボクは並んだ字をゆっくり目で追った。ボクは、字が読めた。嬉しさのあまり、何度も何度も読んだ。そして宇宙の話に夢中になった。 
 星は生きているんだ。宇宙のなかで生まれ、大きくなり、死んでいくんだ。そして人間も星から生まれたんだ。すごい、ものすごい……ボクはブルブル震えるぐらい感激した。書いてあることが全部分かるわけじゃないんだ。だけどさ、カンカクっていうやつで分かるんだ。お母さん、ボクのカンカク触ってみて、こんなに熱いでしょ。 
 ボクはお母さんのことを思った。どうしてか優しいお母さんの顔が浮かばない。情けないお母さんの顔だ。
 ボクがカマキリの卵をとってきて隠しておいたら、カマキリの子供がうじゃうじゃ生まれたんだ。小さくてすき透った幼虫だった。あいつらが部屋中はいまわっている中で、お母さんカナキリ声で叫んだ。「これ、この生き物、今直ぐすててきて」
 ボク、せっせと虫を集めた。お母さん「ここにはいられない。家出します」って玄関開けて出て行こうとした。ボク、あわててお母さんの洋服引っ張ってぶらさがった。「お願い。お願い。出ていかないで」ボクはお母さんにタックルした。「大丈夫よ。公園に行くだけだから」
 お母さんはブランコに乗っていた。「サトル、ごめんね。お母さん、ああいう小さくて動き回るのだめなの。どうしてだろうね。あんな小さいモノまで生きて動いてるの、コワイ」ボクはそういうものかなって思っている。
 お母さんのブランコ、キーコキーコ揺れていた。
「気持ちいいよ。お母さん空と地面の真ん中にぶら下ってる」
 ボクもつられてもう一つのブランコに乗ったんだ。まったくお母さん気分屋なんだから、付き合いきれないよ。
「サトル、目つぶって、鼻つまんで乗ってごらん。宇宙遊泳の気分よ」
 危ないじゃないかと思いながら、ボクやってみた。恐い。真っ暗でフワフワ浮いた感じだ。
 お母さんの声が聞こえた。
「サトル、重くない。お母さん重い。水の中に入ると水が重いでしょ。サトルのまわりになにもないわけじゃないのよ。ここは空気の海なの。重いなあ、重い。サトル、泳ごうよ」お母さんは手足をバタバタさせて砂場のまわりを駆けまわった。
 ボクは自然と手のひらで空気を持ち上げていた。夕暮れの空のすみっこで飛行機がキラッと光った。ボク、ふっと空気の水槽のなかにいることを考えておかしくなったんだ。

 ボクの毎日は、セラピストのお姉さんと話しをすることだった。
  名前を言って
  う
  アナタの名前は
  う……セトレ
  もう一度
  セトル……サトル
  お家はどこ
  お父さんの名前は
  字で書いてごらん
  かくない
  お母さんの名前は
  おかえさん……やめよ。ボク、できねい
 お母さん。ボク言葉なんかいらないよ。だってボク、体の中にいっぱい言葉持ってるもの。今までのボクと違うんだ。ボク、自分のこととっても好きになったんだ。お母さん、会いたいよ。どうして来てくれないの。
 セラピストのお姉さんは、ランゲージ・マスターという絵のついたカードを使って、訓練を始める。
  これはなあに
  えーえー、おーと、おーと、ちがう、のーと
  これは
  え……ピョンて、え……ピョンて、むしだ
  これは
  えーえー、ほら、そらに、ほしでない……つき、つきだ
 お母さん、どうしてこないの。お母さんボクをおいてお月さまにいったんじゃないでしよ。だめだからね。おいてっちゃ、だめだからね。お母さん、嘘つくなよ。お母さん自分のこと、かぐや姫だって言うんだもの。(こんど満月がきたら、お迎えが来て月に帰らなければならないの……)嘘だよ。嘘だよ。

 ボクは毎日ぎっしり夢を見た。だから、朝とっても疲れるんだ。
 ボクは、夜の街を歩いていた。歩道の植込みの所に光るものが並んでいた。ボクは光るものがなんなのかそばに寄った。透き通ったピラミットのようなものだった。枯れた草色の上着とズボンをはいた小父さんが坐っていた。
「小父さん、これいくら」
 小父さんは何も言わないで遠くを見ている。よく見ると、紙が張ってある。(大きいの二百円。小さいの百円)そばに空缶がおいてある。ボクはくるりと振り向いて言う。
「お母さん。欲しいよ。買って」
「駄目よ。そんなもの。ウソツキで、インチキよ」
 ボクは、お母さんの赤い唇から、キタナイものがボロボロこぼれおちたような気がした。お母さんは白い顔をした魔女だった。
 小父さんは何も言わずたちあがり、プリズムをいれた袋を肩にかついで歩き始めた。ボクは追いかけた。小父さんは左足を引きずっていた。小父さんはどうして何も言わないのだろう? だけどボク、トゲトゲの言葉を吐くお母さんより、何も言わない小父さんの方が好きだ。小父さんの後ろ姿が靄がかかったみたいに白く見えた。
 そこは黄色い明かりに照らされていた。まんまるい街灯が二つカーッと照らしていた。桜の木が並んでいた。薄桃色の花びらの集まりがぼんやり、優しく咲いていた。小父さんの姿が消えたと思ったら、トオイ、トオイところからお母さんの声が聞こえた。
「サトル、どこ、どこへ行ったの」
「行かないで、だめよ」
「お母さんの前からいなくならないで」
「だめよ」
「お母さんが先よ」
「お母さんが先に消えるの」
「出てらっしゃい」
 スポットライトに照らされるように、僕は立っていた。
「おかしいぐらい明るい街灯ね。お月さまの子供が下りてきたみたい。こんどこそサトル、お母さんの前からいなくなったと思った。いつも、いつでもそういう気がするの。サトル、あんまり優しい子だから……。恐いのよ、お母さん。だからお母さん、サトルに嫌われる前に消えてしまう……」
 お母さんの匂いがした。お鍋が湯気をふいているような息が匂った。
「ずるいよ。お母さん、ずるいよ。親は子供が大きくなるまで責任があるんだよ」
「子供をうんだら、母親の役目は終わりよ。サトルは歩けるし、何でもできるし、一人で生きていける……」
「だけどボク、話ができない。いいよ。言葉なんかいらない。お母さんがいれば、何もいらない」
 お母さんは街灯の明かりに消されるように、少しずつ体が透けてきている。
「どこへ行くの。お母さん。ボクも行くよ。一緒に行くよ」
「どこへ行っても同じよ。人と世の中の仕組みから逃げられっこない。お母さん、ここにいるとバラバラになっちゃう。だから、お月さまに行くの。サトルのこと見てるわ」

 次の日、ボクはお父さんに言った。
「おかあさん、どしてこない」
「お母さん、少し具合が悪いんだよ」
「うそ……うそつき」
 ボク、寝たふりして聞いたんだ。お父さんが看護婦さんと話しているの。
「いつでも退院していいですよ」
「母親が消えたんです。……普通じゃなかったんです。サトルが口をきかなくなってから、またひどくなって……。一日見張ってるわけにいかないから病院にいれたんです。今朝病院から電話があって、消えたんです。何にもなくなったものがないのに、あいつだけが消えたんです。サトルになんて言ったらいいのか……」
 ボク、一生懸命我慢して寝たふりをしていた。僕知ってるよ。きのうお母さん、ボクにお別れを言いにきたんだ。お母さんお月さまに行ったんだ。本当だよ。
 窓から見えるもの、ほとんどは空だった。真っ青な空に半欠けの白い月。夢みたいな白い月を見ていると、なぜか目の裏がじわっと熱くなった。そしてボクは、ボクの地球がゆっくりと動いているのを感じていた。
一九八九年一月(えん五号 発表)