青いスープ


 頭の中に数えきれないほどの微小な生きものがうごめいていました。体は水素ガスを詰め込まれた風船のように、どんどん膨れていく感じでした。次には、TVの画像に閉じこめられたノイズがはじけ飛んだように、なにがなんだがわからない状態でした。一体どうなっているのだろう? ということを考えはじめると頭の中がぐるぐる回り、意識が途切れそうになりました。長い時間耐え続けました。もしこの世界に時間といえるものがあるとしたらですが。その時です、かすかに声が聞こえたのです。正確には聞こえたのではなく感じたのです。
 ほりぷん…ほりぷん……。風が通り抜ける音かと思いました。笛の音色のようでもありました。それが何なのかわからないけれど、闇の中に宙吊でいるような今の状態では一点の光に思えました。ポリプ、ポリプ、ポリプ……。確かにポリプと聞こえたような気がしました。ポリプって、なんのこと?
 真っ暗という表現しかできない場所に居るようでした。真っ暗というのは、何も見えないから、そうとしか感じられないのでした。本当は何も見えないということはありませんでした。始めは大きなうねりのようなものが見えました。それがあちらこちらと飛び回り、つぎには稲妻のような青白い閃光が走りました。声の主に神経を集中すると、ぼうとした光の輪が見えました。光の輪は広がったり縮まったりをゆっくり繰り返しました。
 あなたはナニモノ? という問いにポリプなるモノは、それ、答えるのむずかしい、と悲しげに言いました。答えなければいけないのなら、プロダクションコードでいい。CPいやPCだったかな985427‐0。ポリプなるモノは多弁で私の気持ちなどおかまいなしに話し続けました。とても可愛らしい声に思えました。本当は声が聞こえているわけではないのですが、私はその思いがどこから届いてくるのかもわからないまま、ポリプに語りかけていました。 
 話を聞いてあげるぐらい、お安いご用よ。でもね、私、わたしって言っていいのかもわからないけれど、どこにいるのかも、自分がいるのかだってさっぱりわからないの。さっき少しだけわかったような気がしたけど、もう思い出せない。そのうちアルツハイマーとかみたいに、頭のなか真っ白になってしまうのかしら。
 ポリプは少し見えてきたよ。ネエは、サピだろう。ポリプの知っているサピは、仲のいいサピにはネエと言ったよ。
 なあに、サピって? それにネエって私のこと? 私、自分の目で自分のこと見たことあるかしら? ああ、見えないわ。手も足も……何も見えない。見えないって、暗いのね。でも暗いって何もないっていうことじゃないわね。ああそうか、馬鹿だな、どうして気がつかなかったんだろう。目を開ければいいのよ。
 だめだ、目を開けないで。目を開けたら、たぶん、ボクはネエの前から消えてしまう。
 なんだかわからないけれど、とにかく目を開けたら、消えてしまう世界ということかしら。それって、夢のことじゃない。
 私は少しだけ納得し、ポリプの話を聞き始めました。ポリプは声で私に語りかけるのではなく、私の意識に、ちょうどナレーションつきの映像を見せるような感じで、テレキネスを送ってきました。
……その生命体のことを、ホモ・サピエンスと呼んでいたようです。サピエンスとは百兆もの細胞をもった、強靭な生命体でした。遺伝子を入れる袋をたえずさがしまわり、すりきれたら新品と交換し、その上どんどん増殖していったのです。サピエンスは遺伝子の袋を維持するために、栄養源を作らなければなりませんでした。ひとつは、光と水で光合成をし、澱粉質を作るプラトールでした。もうひとつは、そのプラトールで育ちタンパク源を作る、ポリプでした。もちろん、プラトールにはいろんな種類のプラトールがあり、ポリプにだって、さまざまな種類のポリプがあります。ポリプは、やわらかい肉質を維持するため体の表面をキチンという薄い甲羅でおおわわれていました。関節のつなぎめは、クチクラというゴム状のものでできていました。ボクを作ったのは、よりよいポリプを作るために集められた、エキスパートでした。そのレディサピは、キララと呼ばれていました。ポリプは、サピと同じく卵と精子の結合による有性生殖で作られました。そのために、ポリプの生殖センターがあり、そこは厳重に管理されていました。キララは、不可能といわれる研究をしていました。上質な♂と♀の授精卵を分割して誕生させられたクローンポリプのPC7型というのを作りました。そしてそのポリプから細胞の核を取り出し、受精卵の核と入れ替え、固体を再生するという実験でした。ある記念すべき日のことでした。遠い昔サピエンスが住んでいたという惑星が消滅した日のことです。シャルレ(実験装置)の中の核が二つに分裂し、四つに分裂し……薄い膜に包まれた青色の心臓がゆったりと命のリズムを刻むのが見えました。キララはそのポリプを自分の居住スペースに隠しました。ボクはそういう事情も知らず、キララのスペースで快適に成長し、四度脱皮しました。ふつう、ポリプは、五回脱皮して、ピンク色になると、サピの食料になります。
 キララのことを話すのはとてカナシイのです。ボクはキララを失ってから、カナシミという感情を知りました。それまではキララと言葉の交信はできても、感情というものがわからなかったのです。この世界では、ポリプが感情を持つなどということはありえないことなのですが。それはサピエンスの世界でも同じでした。サピエンスはこの惑星に移り住む時、厳しい選択を迫られました。選ばれたのは、遺伝子レベルでピックアップされたわずかなサピエンスでした。そのまた昔、その星にはゴットの残した本がありました。その本には、その星がすべて水におおいつくされる日のために、ゴットは選ばれた民に船を作らせ、すべての生き物を一対ずつ乗せたとあります。けれども今度はその星自体が消えてしまうのです。宇宙船に乗ったのはサピエンスと電子頭脳だけでした。彼らがその星を離れるとき、すべての持ち物と一緒に、感情も捨ててきたのです。
 キララは言いました。ねえポリプ、悲しみっていうのはとてもつらいものなのよ。どれぐらい? コブを何個作ったくらい。キララは、笑って、体が痛いわけじゃないのよ。心が痛いのよ。サピの故郷の惑星には、海というものがあったと、キララは話してくれました。それは、豊かな青い世界で、万物の生命の源だったと。海の成分は、今はシャルレで作っているウォータとほぼ同じものなの。違うのは、海のウォータはナトリュウムが入っていること。それは生命体には必要な成分だけど、海のウォータってとても不思議な味がするの。どういう味? 涙の味と同じ。遠い昔サピは、悲しみという感情を海に流したの。多くの悲しみを流し続け、その悲しみのスープが、またあらゆる生命体を生み出したの。だから、生命体自身が悲しみの結晶なの。
 ボクとキララの生活は長くは続きませんでした。ある日、キララとボクはひきさかれ、ボクは本部ステーションのこの場所に隔離されました。それ以来ボクは痛いような苦しいようなで、内部疾患だと思っていました。でもわかりました。キララが言っていたカナシミということが。キララはボクと別れる時、その悲しい水を目から滴らせました。透明な血液のようでした。ボクは、その水をなめました。カナシミの味は知ったけれど、まだキララのように透明な水を流すことはできません。キララとボクには共通点がありました。それは考えられないぐらい遠い昔の、遺伝子の記憶が残っていたということです。そいつはいつともしれずおそってきて、ボクは、その記憶に占領されると青く光るのです。
 少しずつでしたが、青く光るポリプの姿が見えました。白いドームのような場所でした。青い甲羅でおおわれて小さな三角形の顔をつけたポリプと向き合っていました。ポリプは、驚かないで、と言いました。私は、大丈夫、ポリプはとても可愛い目をしているから、好きになれそうよ、と言いながら、やはりポリプの頭の天辺から足の先まで数回見まわしました。
 ボク、おいしそうにみえる、とポリプが言いました。
 いやだわ、おいしそうだなんて。
 生き物は生き物を吸収しなければ生きていけないんだ。だれが作ったの、こんな仕組み。
 ポリプの体が蛍光管のように青く光りました。
 誰かが入ってくる気配がしました。甲高い言葉のやりとりが聞こえ、ポリプは、透明な箱にいれられました。 
 ポリプ、どこへ行くの。行かないで。
 叫んだのに自分の声が聞こえません。どこを向いても真っ黒な壁に向き合っているようでした。どれぐらいの時が過ぎたのでしょう。
 ここは食肉倉庫だよ、とポリプのテレキネスが届きました。新鮮さを保つため、生きたまま保存されるんだ。調理される前は、消毒のシャワーがあびれて、うまいプラトールが食べられる。そしてここちよいミュージョンさえ聞かせてもらえるんだ。最高のコンディションで料理された材料は、最高に美味なんだ。ポリプは、感情を波立たせるように青く輝きます。ネエ、聞こえる。仲間が祝福してるんだ。馬鹿なポリプだって。仲間の中に程度の差はあるけれど、ヴァリア(変異体)がいるんだ。いや、すべてのポリプがそうなのかもしれない。ただ、大多数のポリプはコミュニケートできないだけなのかもしれない。ネエ、ボクの最後の声を聞いて、キララだよ。キララの中にはいるんだ。なぜって、キララは決まりを破ったから、生体実験用のサピになったんだ。ボクを食べるのが、最初の実験。その後には解剖され……最終的に、プラトールの肥料になるんだ。
             *
 食卓に白い皿、青いスープ。キララの思っていることが、私にはわかりました。
 ポリプ、あなたのスープは太古の海の味がする。生命のにおいがするわ。
                 一九九七年三月発行(二十一世紀文学六号発表)