蒲公英


 早朝、春の雪が降った。
 都会の雪景色は、野山に降る雪景色に比べてみすぼらしい。それでも大気中の汚れが吸い取られ、普段はにごっている水晶体が磨かれたような気がした。冷え切った空気にも、やわらかさがあった。アスファルトの路面の隅や、雑草の上に残った雪の残骸が二美子の網膜に定着される。
 軒先や生垣の葉から雪解けの水が滴る。不連続にただ落ちるだけの音が、倦怠感を漂わせている。
 電車の窓から見える景色がいつもの街と違う。自動販売機の上に積もった雪。線路脇の忘れられたような立ち木に積もった雪。おかしな収集癖があるのだろうか。つぎはぎだらけのスクラップブックみたいに、それらの残像がたまっていく。
 電車が走っている。雪の残った小公園に赤い色が揺らめいた。
 電車がそのまま止まったかのように、鮮やかな赤い色を見ている。焚き火だった。
 二美子は自分の体の中が、じりっと燃えたような気がした。

 街のはずれに、若葉通りというさびれた商店街があった。
 タンポポという名の喫茶店があり、いつでも女定員募集の貼り紙がしてあった。間口が狭く、うなぎの寝床のような店だった。カウンターの奥に急な階があり、そこを上ると天井の低い部屋があった。細長い部屋に木枠の古めかしい窓あった。休憩時間にそこから外を眺めると、忘れ物を見ている感じだった。薄汚れたモルタルの壁。蓋が持ち上がったポリバケツからはみ出した残飯。
 二美子はそんなものをじっと見ていることがあった。
「フミさん。何か面白いものある」
 一つ一つ音をくぎる奈保の言葉が聞こえる。細い体を折り曲げ膝を抱えている。奈保は視点の定まらない顔を窓に向けながら、独り言を呟いている。
「タンポポの名に惹かれてこの店に来たんだ。この店おかしいのよね。いつだって女店員求むだものね。フミさん、ここの経営者知ってる? 女性よ。昔、このあたりって色里だったんですって」
「色ざとですか。ふうん、どうしてそれでタンポポなのかしら」
「タンポポは綿毛になって飛んでいける」
 二美子はふと暖かい南風を感じたような気がした。
 春になると風が吹く。あれは木々や草たちのスキンシップなのかもしれない。
「そうか、色里の女ってタンポポなのか。飛びたかったのかも」
「フミさん、私、タンポポの綿毛になりたいな」
「ナホさんが、無理よ。人間は私有財産多すぎるもの。重量オーバーで飛べやしないわ」
「ふふふ……。おもしろい人、フミさんって。だから考えたのよ。荷物全部処分して身軽になるの」
「処分して、遺書書くわけじゃないでしょ」
 奈保は顔を背け、小さな声で言う。
「住み込みでお手伝いさんするの」
「住み込みの? ナホさんデザイナー志望じゃなかったですか」
 奈保には不思議な魅力がある。タンポポみたいにふわふわ浮いている感じがする。
「ナホさんの彼、元気ですか」
「行方不明。外国行ったかもしれない。それとも死んでるかもしれない」
 そうなのか、奈保の前から姿を消してしまったのか。
 二美子は一度だけ会った男を思い出していた。
 奈保と一緒に帰る途中、待っていた男と三人で飲みに行ったことがある。

 カウンターに座った二美子は、ボトルやグラスの並んだ棚を見ていた。棚の後ろは鏡になっていた。ライトや人影に混じって燃え残った火のような男の目を見つけた。
 二美子は男を見つめた。この薄気味悪さは何だろう。背が高く痩せ型で、色は青白いぐらいだ。黒渕の眼鏡をかけている。眼鏡の奥の眼球が微動だにしない。少し厚めの唇は赤く、シニカルにゆがんでいる。
 そうだ、前衛絵画に描かれている顔だ。弱さと怯えのまじった人間性の薄い顔だ。
 奈保が席をはずしたとき、二美子は言った。
「ナホさんのこと、どう思ってるんですか」
「どうって? 馬鹿なこと聞くんだね。いい女だよ」
「いい女って」
「男にとっていい女さ」
 男の赤い唇がゆがんだ。
 二美子は不快な音を聞いたように気分が悪くなった。
「男にとっていい女、イコール女にとっていい男ではないですね」
 男の眼球が戸惑った。
「女は、美味しい食い物だ。君は食ってもらいたいとは思わないのか。まあ、食欲をそそるタイプではないな。花や虫だって色香で男を誘うんだ。つまり君は女として失格。生物学的に生きてる価値がないんだ。しかし興味があるね、女を感じない女というのは、僕の回りにはいないタイプだから。君にとって男とは何かね」
 生きてる価値があるなんて、とっくに思っていない。あなたはさぞかし生きている価値のある人間なんでしょうね、と言いたいところを我慢する。こういう男と議論しても後味が悪いだけだと二美子は思っている。
「男ですか? 男も女も……私にとって生き物一般です」
 男の蒼白い顔にみるみる赤味が差した。
「うそだろ。うそがあるだろ。君を見ていると腹が立つ」
 腹が立つのはこっちの方だと二美子は思う。
「ありがとう。久々に人間らしい感情に出会えたみたいよ。私単細胞だから。でもカッカできるっていいことねぇ。ストレス発散できるし、なんだか前向きに力がわいてきたみたい。憎悪ってビタミン剤みたいなものね」
 二美子は思っている。男は怒り、女は泣く、そういうふうにできているのかな。二美子は何故か地球の内部を創造していた。いくつかの層に覆われた中心のマグマ。それが今にも噴出しそうな気がして男を見つめた。ところが男の様子は沈静化している。
 あの男の中には、やりきれない廃棄物が燻っているのかもしれない。

 奈保の目が赤い。そうか、あの男に逃げられたのか。二美子は鼻の奥がツーンとして涙腺が弛んだ。
「ナホさん。憎しみの後って哀しみがこない。女って哀しいよね。どうしてかな? なんだかね、男だけじゃなく、子供とかいろんな命じっと見てるような気がする。そういうの女の性って言うのかしら。止めなさい、あんな欠陥男」
 奈保の目がキラキラしてる。綺麗だと思う。恋をするたび女は優しくなれるのかもしれない。
「ナホさん、どうして住み込みのお手伝いさんなの」
「身辺整理。結婚するかもしれない」
 分かったような分からないような気分で、ふうんと呟いていた。言いたいことが山ほどあって、体が膨らんでくるのに、何故か胸苦しくて何も言えない。
 奈保の顔は透けるように白く、ショートカットの襟足からかすかにもれるものの匂いを感じた。
 その体を覆う皮膚の無数の穴から漂っている気配が、気持ちを沈ませる。
 いやだなあ、人間って、女って……複雑な気持ち。こういうの方程式で解けないのかな。
「ナホさん。どうしてかな? どうしてそんなに一生懸命男が好きになれるの」
 奈保の目が見開かれ、どどっと何かがあふれだしそうな気がする。
「彼が言ってた。DNAのせいよ。二重らせん構造だって」
「二重らせんって遺伝子のこと。体の中にそういうのがぐるぐる繋がってるのよね。見てみたいな、それ」
「男と女って、磁石の+と−みたいなものよ。説明できない気持ちに惹かれるの」
「自分の意思じゃないわけ」
「DNAの指令よ。彼が言ったことだけど(すべての細胞に告ぐ、食べよ、成長せよ、分裂せよ。この指令を次の世代に伝えよ)」
二美子は奈保の言葉を聞いて、体中が絞られるような気がした。
「虚しいな。生きてるの嫌になってきた。何のために生れたかって、子孫を残すためによね。腹がたたない、そういうの」
 二美子は混乱していた。体の中を流れる潤滑油が濁っている。きっと本能という指令にがんじがらめにされた時、憂うつなホルモンが体の中を巡るのではないだろうか。
 奈保が、錠剤を手のひらに載せ口に入れていた。
「何の薬」
「みんな忘れて楽しくなる薬」
「まさか?」
 死ぬまで忘れていることができるの? それよりいい方法あるんじゃないですか。たとえば百メートルを全力疾走するとか、思いっきり大きな声で歌うとか、それとも何かを壊すとか……。

 ロックミュージックが耳の中になだれ込んできた。閑散としたカウンターのそばで、恵はミニスカートから伸びた健康的な足でステップを踏んでいた。
「メグちゃんのチャームポイント、長くて太い足なの。みんな可愛いって言うわよ」
 はっきりした顔立ちは、合成樹脂でできた人形のように整っている。恵は自分が魅力的に見える仕草を百パーセント知っている女で、恥らうふうもなく人前でポーズをとった。二美子にはできないことだった。笑顔も媚も、独り言のように内側にわいては溜まっていく。
 二美子は、美形には二つの種類があるのではないかと思った。一つは恵のように天性のもの。もう一つは奈保のように後から付加していったもの。恵のように先天的に美形の顔は、皮膚が陶器のように滑らかな感じがした。そして細胞の層も薄い気がした。その薄い顔面の膜がゆがむとき、特に怒りや憎悪がむき出しになると、陶器のような表皮と皮下組織がバランスを失い、奇妙にひきつれた。奈保の場合は、表情の一つ一つに色と匂いがあふれているような気がした。
「ウェイトレスは、Tシャツにジーンズじゃだめよ」
 そういわれて、淡いグリーンのワンピースを着て、襟元にオレンジのリボンを結んでいったら、恵が笑いながら言った。
「カウンターのお兄さん言ってたわよ。ワンピースもそうだけど、リボンがね、野暮ったいの……」
 二美子はむっとして、いいじゃないの、どうせ私は田舎者だもの。イソップに田舎のネズミと都会のネズミの話があるでしょ。都会のネズミになりたいとは思わない。確かに都会は魅力にあふれている。街も建物も人も綺麗よ。でも、目に映るもの、皮膚に触るものの体温を感じない。
「今日、メグちゃんとこ泊まりおいでよ。洋服あげる。少しやせたんだ。だから太めちゃんの洋服余ってるの。おいとくとまた太りそうだからあげる」
 二美子はアパートの部屋の前に立っているかも知れない男の姿を思い浮かべた。
 蒼白い顔に神経質そうな目。二美子には理由が分からない。男に色目を使ったり、誘ったこともない。
「僕はすっぽんだよ。食らいついたら離れない。君がどこに逃げようとおいかけるさ」
 と芝居じみた台詞を言う男がうっとおしくて、恵に、ほんとに泊まっていいのと聞いていた。
 黒い雲が垂れ込めて、小雨が降ってきていた。
 アスファルトの路面がぬれて、街灯の明かりが黄色くにじんでいた。駅からの道のりを上着を頭から被り歩いた。路地に吸い込まれるように後ろの足音が一つまた一つと消えていく。気のせいだろうか、鈍い足音が粘りつくようについてくる。違う、あの男の足音は、もっと軽くリズミカルだ。
 恵の歩調が早くなる。そのとき二美子は後ろから体をつかまれた。とっさに後ろの男の足を踏みつけ、手を振り解いた。
「フミ、逃げよう」
 恵が叫んで、二美子の手を引っ張った。恵の切羽詰った顔が焼きついた。
「待ってよ」
 二美子は後ろを振り返った。丸刈りのいかつい男が二人立っている。運動部とか応援団に入っている感じの学生に見える。男は見かけによらず二美子の視線にたじろぎうつむいた。
「どういうこと! 許せないわよ。私許せないわよ」
 近くに交番の明かりが見えたのが幸いしたのかもしれない。二美子は興奮が収まらなかった。
「オー恐いお姉さんだなあ」
「謝れよ。だから止めろって言ったろ。早く謝れよ」
「お前がやれといったじゃないか、お前が!」
「行きましょ。交番に行きましょ。内輪話は交番でして。あなたたちのしたことは痴漢行為でしょ」
「すんません、すんません。酒飲んで気が大きくなってたもんだから……」
「酒飲むと、女を襲いたくなるわけ。どういう生理なの? そういうの恥ずかしいって思わない」
 細かい雨の粒が顔を濡らした。荒い息を吸い込むと、青臭い草の匂いがした。二美子は自分の体の中にも同じような匂いがこもっている気がした。雨にまぎれて湿っぽい雫が頬を流れた。憤りが砂地に吸い込まれる雨のように悲哀に変わっていく。男たちは平謝りに謝った。二美子は男たちに詫び状を書かせ、住所氏名を付け加えさせた。
 恵はいつもの愛らしい笑顔を作り、二美子の腕に自分の腕を巻きつけた。
「凄い。フミって凄い」
 二美子は、逃げようと手を引っ張った恵の手の温かさを思い出していた。こういう体温の伝わり方が、好きとか嫌いとかいう人の感情の流れを捉えるのではないだろうかと思っていた。
「どうして女は男に襲われなければならないの? メグさん、今度男襲っちゃおうか」
「ふふふ……。あーあ、おかしな人。ねえ、子供の時遊ばなかった。鬼ごっこ。メグちゃんいつも男の子に追いかけられっぱなしだった」
 二美子は思っていた。恵みの言う情景が浮かんでくる。あったかもしれない。私逃げなかったから、男の子が変な顔をして寄ってこなかった。私、皆が走り回ってるの黙って見ていた。
「そうね。構造的に違うのよね。体の仕組みがそうなっているんだもの。せっせと女を襲わなければならない男って可愛そうな気もする」
 体が粘ついた。雨に濡れた生垣の葉が、ふうっと魔法の息を吐いていた。春の温かい雨は、子孫を増やしなさいという生き物への指令なのだろうか。
「セントウ行こうよ」
「セントウ?」
「風呂屋よ。なんだか気持ち悪くない。う〜人間の匂いがする。美味しそうな女の子の匂いがする」
「ウン、なんだかむしゃくしゃする。こういうの石鹸で洗うと落ちるの?」
「落ちる、落ちる。清純派に生まれ変わろう。あーあ、フミについていくの大変みたい」
 サンダルを突っかけて銭湯に行った。恵はさっさと洋服を脱ぎ二美子を促す。二美子は番台に座っているオジサンが気になる。
「どうして? 減るもんじゃなし、爺さんじゃない」
 時間が遅いせいかお客がいなかった。恵の均整の取れた体が浴槽の中で伸びていた。
「犬かきよ」
「犬かきって、どうやるの」
「フミ、かなづちなの?」
「泳げるよ。クロール、背泳ぎ、平泳ぎは苦手だけど」
「えっ、ホント。そんなふうに見えない」
「どんなふうに見えるって言うの」
「フミって、テンポずれてるし、なんかくらーい感じがして……」
「私、生れてきてよかったって思ったこと、二回ある。一回は、初めて水に浮いたとき。ああ、生きててよかったって。なんだかすごく安心できた。やっぱり生き物の祖先は水から来たんだろうなって思った。それから魚と親しくなれるような気がした。いいなあ、魚って」
 二美子の頭の中に魚が浮かんだ。もしも魚に足があって、水の中を歩いていたら不様だろうな……そんなことを一人で想像しておかしくて笑った。
「フミって、おかしい。ナホも言ってたけど、私もそう思う」
「おかしい? そうかな? 私から見たらメグさんナホさんのほうがずーっとおかしい」
 そう言いながら、どうしてか何もかもが見えない糸で操られているような気がして、二美子は意識がかすんでいく感じがした。

 空気が揺らいで、二美子の首筋を撫でていく。春の風はやさしい。煙るような雨の中を歩きながら「嫌な匂いがする」と二美子が言った。
「どんな」
「魚の腐った匂い」
 でも……二美子は呟いていた。
「肉の腐った匂いってどんなだろう?」
 二美子は想像していた。知らないと思った。自分の体を眺め回し、これの腐った匂いは? と思った。
「フミは、草の匂いがする」
 恵が言った。
「じゃあ恵は、満開の花ね」
 妖しい匂いがするもの……と二美子は呟いていた。花は生殖器官だと何かで読んだことがある。淫らというわけではないが恵にはそういう風情がある。そうすると、二美子は開き忘れたつぼみ、頑固なつぼみの化石のようなものだと思って、一人で笑った。

 締め切った部屋は、閉じ込められた空気が蒸れていた。上がり口に、分厚い少女漫画が積んであった。恵は熱いお茶を入れると漫画本を指差しながら「読む」と聞いた。お茶と少女漫画、なんとも変な取り合わせだなと思いながら二美子は言った。
「マンガ、疲れるから読まない」
「ふうん、何なら疲れないの」
「哲学書」
 ふざけていったのに、真顔で聞いている。
「やっぱり、フミっておかしい」
 すし屋の大ぶりの湯飲みでお茶をすすりながら、
「フミ、お酒飲む?」
「ウン、何でも飲めるよ」
「メグちゃん飲めないの。ウイスキーって腐るもの? 味見しようにも味が分からない。味醂にもできないしね」
 流し台の下をごそごそさせて持ってきたのは輸入物の高いスコッチみたいだった。
「味なんてわからない。体の中消毒するつもりで飲んでるんだ」
 口の中に流し込むと、食道と胃袋の粘膜が身近に感じられた。恵がそんな様子をじっと見ている。
「体の中って掃除できないものね。ホコリはつかないかもしれないけど、結構配水管みたいにヌメーって汚れてるよね。メグさんもアルコール消毒してみたら」
「どうしてお酒飲むんだろう。美味しいから? 気持ちがハイになるから? ナホ、アルコール依存症じゃないかな。この間ナホの部屋行ったらさ、一升瓶抱えて飲んでたもの」
 二美子は驚いた。薬を飲んでいる奈保子の姿を思い浮かべた。薬のほかにアルコールも、どっちか一つにしておけばいいのに、どうしようもない人。どうしようもない……というため息が胃袋から醗酵していた。
「パンセってあるでしょ」
「…………」
「パスカルのパンセ」 
 恵は湯飲みを握りしめながら言う。
「ああ、考える葦の人」
「哲学書ってウイスキーみたいな味。自虐的苦さ。パンセの中に、生きることは気晴らしだ、って書いてた。そうかもしれないって思った。それと、星の王子様ってあるでしょ」
「ああ、あれ好きよ」
「恵は頬杖をつきながら聞いている」
「のんべの星の住人の話があるでしょ。忘れるために飲むっていうの……。ああそうかって思ったの。生きていることを忘れたいんだって。それで私、悪い組織から足を抜いた……」
「悪いソシキ?」
 恵はお茶を飲みながらむせる。
「アルコール依存症」
「依存症って、癖みたいなものでしょ。メグちゃんケーキとか甘いもの大好きだけど毎日毎日食べようとは思わない。分からないな、そういうの」
 恵の目が二美子を見ていた。二美子は視線をそらした。すわり机があった。その脇に本箱があった。マルクス、エンゲルス、経済政策入門、モルモン教……。おかしな取り合わせだなと思いながらどうして恵の視線を避けてしまうのだろうと思っていた。
「ナホさん、自滅したがってるんじゃない。だめよね。今のナホさんに何を言ったって」
「大丈夫。ナホって不思議ともてるんだから……。今もプロポーズされてるのよ。条件いいんだから、さっさと結婚すればいいのに。ああ、美貌のメグちゃんどうしてもてないんだろう。……寝よう、寝よう」
 蒲団が一枚しかないと言いながら、恵は蒲団を敷いた。
「メグちゃん、パジャマ着ないの」
 恵は、ブラジャーとパンティだけになって、白鳥の湖をタララタララララ……と歌いながら踊った。二美子は笑った。
「なあに、それ」
「儀式。メグちゃんお姫様願望だもの、いつかステキな王子様がメグちゃんの前に現れるの」
 二美子は、蒲団の上に座っていた。眠れそうもなかった。明かりの消えた部屋は、無数の黒い粒子で覆われている。その中にぼんやりと壁やドアが見える。
 この場所にこうしていることが不思議だと思う。寝ているかと思った恵が声を出した。
「抱きつくかもしれないよ。潜在的願望なんだ。メグちゃん、一人っ子だから、ちっちゃい時クマのぬいぐるみ持って放さなかった。ボロボロになって中身がはみ出して、汚いって、父が捨てちゃった」
 恵は背中を向けたまま言う。
「男って、どうして女が抱きたいんだろう。ぬいぐるみ抱くのと違うのよね。私の父、いつも女作って家に帰ってこなかった」
 二美子は、自分が引きずっている性への疎ましさを恵も感じているのだと思った。
「フミ、男好きになったことある? メグちゃん父に似たのかな、惚れっぽいんだ。彼ね、すごいかっこいいの。それにやさしくて、スマートで……」
 恵は二美子のほうを向いた。
「男って、綺麗だとか、好きだとか言い寄ってくるわ。はっきり言えばいいのに、セックスがしたいって。そういう男の本性を見るとギュッと目をつぶってしまう。見るもんか、見るもんか。男の目が言ってるの。人類存続のために本能バンザーイ」
 二美子は思っていた。若い男って、さかりの犬みたいで、好きになれない。
「ふん、男もフミみたいな女、抱きたいと思わないよ」
「ウン、そう言われる。可愛くない。嫌な女だって。どうしてよ? 誰のために可愛くならなきゃいけないのさ」
「分からないな。フミの話聞いてると、迷路に入り込んじゃう。寝よう、もう寝よう」
 目を閉じると井戸の底にいるような気がした。上から見下ろす視線を感じる。あの男は帰っただろうか? 気持ちがどんどん沈みこんでいく。二美子の腹の中になんともいえない空間がある。それが憂うつの限界に達すると、生理的血液を捨てるのかもしれない。なんだか乳房が張ってきた。

 ぱさっぱさっと雨が降っている。空も憂うつなのだろうか。空中に漂う水分が、耐え切れず雨粒になった。二美子は湿り気の混じった空気を見ていた。白と黒の無数の点の集まりが微妙に変化している。
 体の中に溜まった無色透明な息が、膨れて破裂しそうになる。耳鳴りがする。ハレツシロ、ハレツシロともう一人の誰かが叫ぶ。あたりの気配が少しずつ明るんでいるのがわかる。フルートの澄んだ音がする。白い粒子が、少しずつ少しずつ増してくる。ふと時が、何もかも食べつくしては哀切な歌を歌う巨大な怪獣に思われた。二美子は紙の切れ端に、帰りますと書いた。

 小雨の中を駅に急いだ。寒々とした木々の影も、間近に見ると艶やかな葉が出ていた。
 ハルガキタ ハルガキタ ドコニキタ
 無意識に言葉が出ていた。
 ヤマニキタ サトニキタ ノニモキタ
 突然、正体不明な不快感が湧き出てきて、唇をかんだ。その高まりは何なのだろうか? 
 二美子はこんな時、自分の意思とは関係なく憂うつなホルモンが分泌しているのを感じた。
 信号機の赤色が目に染みた。信号の赤は右、青は左なんだなと思いながら、いつも見ているのに気がつかないことが多いことを思う。
 雨水のしみこんだアスファルトは、細かくひび割れていた。クロネコかと間違えるほどの大ガラスが路面に降りていた。カラスはポリバケツのゴミをあさっていたのだろう。二美子は立ち止まってカラスを見た。
 黒く艶のある羽、凛と張った胸、黄色くて太い嘴、ハシブトガラスだ。二美子はカラスの雄姿に見惚れた。
 始発の駅には誰もいなかった。広がった空間に投げ出された椅子。壁に貼られた雑多なポスター。二美子はそこに座り込んで、いつだったか見知らぬ駅で一夜を明かしたことを思い出した。
 改札が始まって、ホームに上った。ベンチに座ってぼんやり目を向けると、大きな立て看板が並んでいる。そのわずかな隙間から見える景色。ビル、ビル、住宅の屋根。
 ぽっかりと開いた空間に、二美子はタンポポの綿毛の原っぱを見ていた。桜の大木が数本立っていて、後は一面タンポポの綿毛が揺れていた。
 夢のような景色だった。
 二美子はタンポポの綿毛になって飛んでいた。綿毛は風に吹かれて気ままに飛び、どこかに命の錘をおろすのだろうか? 二美子はその錘のような気がした。芯のようなものがあって、後はおぼろな感覚だけで、うす曇のタンポポの原を見ている。こういう気分になるのは疲れている時に多い。自分の輪郭さえ感じないのに、どんと重い本能を抱え込んで、ああタンポポの綿毛だなあと思ってしまう。

 地響きを立てて電車が入ってきた。二美子は電車の扉に吸い込まれた。高い場所を電車は走っていた。ガラス窓に顔をつけながら、タンポポは風媒花。人は乗り物によって運ばれ、根を下ろし花を咲かせるのかなあと思っていた。空は厚い雲の層が垂れ込め、その下には住宅の屋根屋根が密集していた。

一九八八年八月(えん四号 発表)