透 影
                                  

 受話器の小さな穴から細い声が出ていた。合成音のように感情を押し殺した声。
「七月三十日に、あちらの病院で亡くなりました。遺品を整理してましたら、よし乃さんに書いた手紙がありました。今日、投函しましたから……」
 少し開けた窓から薄い光が差している。台所のリノリウムの床が鱗のように光っている。
「嘘でしょ。どうしてそんな嘘をつくんですか。嘘でしょ」
「相田洋司は亡くなりました」
 留守番電話のようにとりすまし、抑揚のないその声は、死にました、とくり返す。
「どうして? 死因はなんですか」
「事故です」
「交通事故?」
「いえ、似たようなものですが」
 切り絵のような洋司の姉の姿が、頭の隅に浮かぶ。儀礼的な日常会話をかわしているみたいだ。電話の声がかすかに震えている。
 大気の中、人目に触れることのない音の波が無数に飛びかっている。その震える声の一つ一つが目に見えるようだ。
「どうしてそんなことになったのか、分からないと言うんです。突然、トラックがバックして、荷台と壁に挟まれたと言うんです。傷はなかったし、血も出でいないから、とにかく病院へ行こうと思って、立ち上がって、ニ三歩、歩いたところまでは覚えているって……。実際は、胴体がペチャンコで、内臓の位置なんかぐちゃぐちゃでした」
「それですぐに……」
「……連日、手術手術で。やっと胃袋とか腸とか元の位置に納まって……五体満足でなくても生きてさえいればって、一安心したんです」
 言葉が途切れる。風が硝子窓を叩く音。
「洋司、頭の方はしっかりしてるから、空腹感あるみたいで飯が食いたいなあ、なんて……」
 声が止まり、嗚咽を抑えている気配が伝わってくる。
「あなたのこと、知ってます。洋司があなたのこと好きだったのも。でも、あなたの病気、治らない病気だって聞きました。だから、あなたと洋司が一緒になるの、みんなで反対したんです。御免なさい、失礼なこと言って。……今だに、あなたと洋司の関係って分からないんです」
 頭が瞬間軽くなり、電話の奥の声が空気の揺れになって、私の体から離れていく。現実との境が分からなくなる。まるで、体から心がはがれていくみたいに……。
 窓からの明るい日差しが、私の足元まではいっている。
 窓に吊された籠のなかで、洋司が持ってきたブルーのセキセイ・インコが陽気にさえずる。
 こんな明るい朝なのに、洋司が死んだなんて言われて。
 それも一月も前のことで、焼かれて骨と灰になって、散り散りばらばらだなんておかしくてしょうがない。

 ヒロが鳴いている。
 生まれたばかりの毛も斑な雛を持ってきたのは洋司だ。病気が進行して、家にこもっている私の所に、扶養家族ができたんだからしっかり育ててやってくれ、と。
 私、一生懸命育てた。ヘアブラシみたいな、まばらな毛の間から、柔らかな羽毛が覗いていた。一週間も過ぎると、みるみる青い艶のある羽が体全体を覆った。
 ヒロをてのひらに乗せ、そっと撫でてやると、目を閉じ体を脹らませて眠った。
 ヒロは肩がないから、滑らかで柔らかい姿をしている。私も鳥の形に生まれればよかった。
 誰が教えたわけでもないのに、ヒロは羽を広げて浮き上がろうとする。騒がしく天井の隅を飛び、止まることを知らず、壁に当たって落ちてくる。怪我でもしたらと捕まえると、嘴で噛みつき、籠に入れると、餌を飛ばして暴れた。
 洋司と二人で何度か羽を切った。
 洋司が左手でヒロをつかみ、右手で羽を広げた。
「痛くないかしら」
「伸びた髪を切るようなもんだよ」
 前髪を揃えるように、はさみを入れ、
「どうして、哺乳類には、羽がないんだろうね」
「怠け者で、欲が深いからだ」
「ペンギンも昔は飛んだんだって」
「ああ、ペンギンは太りすぎたんだ」
「私、鳥になろうとしてるのかな」
「どうして?」
「鳥の骨みたいにスカスカなの」
 それでもヒロは飛ぼうとした。飛べない鳥と手足の利かない女との共同生活。
 私の病気は原因が分からないし、治療法もない。確かなのは病気が進行しているということ。
 こんなこと言っても信じられないでしょう。自分の手で卵が割れない。ドアのノブが回せない。水道の蛇口が回せない。
 ある日の朝、目覚めると指が曲がっていた。片方の手で広げようとするんだけど、どうしても広がらない。それから七年、身体中の関節が壊れていった。
 枯れ木病。私がつけた名前。肉が落ち骨が変形し、枯れ木のようになる。
 低気圧が近づいてくると痛み、骨の芯を刃物で削られている気分。病院で金を溶かしたトロリとした液を関節に注入する。だけどそれも効かなくなって止めてしまった。

 洋司が突然、アフリカに木を植えに行くといって三年。
 桜の木でも植えるのと聞くと、マングローブだよと言う。
 木を植えてどうするの。
 地球は砂漠化している。だから木を植えるんだ。僕一人が呼吸する酸素ぐらい作らなければね。
 色白で端正だった洋司の顔は、褐色の肌と皺におおわれている。
 年月って恐ろしいわね。人の形を変えてしまう。
 そうだよ。砂漠の巨大岩石だって砂の粒にしてしまうんだから。
 一番欲しいもの、時間。一番恐いもの、時間。それもみんな洋司がいたから……。
 洋司が死んだ夢、よく見たの。見知らぬ病院のベッドで眠っている。いつまで寝てるの。どうして手紙の返事をくれないの。
 洋司、眠りながら言うの。
 おしっこが漏れそうなんだ。ずっと我慢してるんだ。気持ち悪いったらないよ。こんな馬鹿な話があるかい。おしっこがしたいのに出せないなんて。
 洋司の咽仏が震えている。皮膚は乾いて無精ひげが伸びている。
 うれしい。病んでいる洋司見るの。でも少しかわいそう。元気印はどこいったの。木は植えたの、何本植えたの。
 あなた言ったでしょ。死にたがりやの人間が、死に場所探して原っぱの穴に落っこちた。身動きできないぐらい狭くて、深さは背丈の三倍はあるんだ。そいつは完全に死ぬんだよ。それでも死にたがったと思うかい。
 深い穴のそこから、洋司が顔を精一杯上向けている。無表情な顔の目が、視力のない人の目のようにぼんやりしている。
 洋司の顔じゃなく、アキラメっていう文字を見ているみたい。じわって込み上げるこういう哀しさっていうか痛みって、慈愛に近いものかしら。
 私、感情という感情が壊れるぐらい泣いた。でも声は出ないし、涙一つ出ないの。私の涙は、マイティア、人口涙液。
 どうして私が生きていて、洋司が死ぬわけ。おかしいわよ。何かの間違いよ。現実って、時々夢より残酷。

 洋司と会ったのは教会。健康で聡明で、青春ドラマの主人公みたいな人だった。
 寒い日だった。薄暗くなり始めた礼拝堂の壁にもたれて、私、昔話をするみたいに言った。寒さのためだけでなく言葉が震えていた。
「むかし、むかし、たそがれ時のことです。二人の男が山道を歩いていました。男の頭の上でカラスがカアと鳴きました。一人の男が立ち止まって、カラスの奴、俺を呼んでいる、急がなくちゃ、と言うと走り出しました。夜、心配になったもう一人の男が、その男の家に行ってみますと、真っ暗でした。戸が開いたので中に入ってみましたら、男が鴨居にぶら下がっていました。……男は私の父です。親戚が集まるといつもその話が出ます。馬鹿が起きるんだそうです。突然、理由もなく。お風呂に入ろうかとか、寝ようかと思うみたいに、ごく自然に、さあ死のうかって思うんだそうです」
 口から出る言葉が、すべて芝居の台詞みたいに思えて、恥ずかしい。だからその後の言葉が呟きになって消えていく。
「肉体的にも精神的にも、弱いものが死に、強いものが生き残る。動物の世界では自然の摂理だよ。うつ病のライオンは生きていけない。分裂病のゾウも生きていけない。……死にたい奴は死ねばいい。黙って死ねばいい。死ぬ死ぬっていうやつほどしっかり生きている」
 そうかもしれない。
「あの、避けられない決定っていうのがあるだろう。朔太郎のアフォリズムに出ている。男がビルの何階かから飛び降りた瞬間を、時々夢に見るんだ。身体が宙に浮く、落ちていく感覚ってどういうんだろう。みるみるアスファルトの地面が迫ってきて、次の瞬間、男の身体は血と肉の残骸になる。そういう性向っていうか体質の人はいるかもしれない。憂うつ症というのは胆汁が人より多いとかいうのも聞いたことがある。身体の中がどうなっていて、どういう腺があって、どういう調節をしているのか、自分のことでも分からない。人を憂うつにする分泌物っていうのもあるかもしれない。だからって死ぬのをお進めするわけじゃない。世の中には戦争や貧困、死にたくなくても死んでいく人が山ほどいるだろう」
 私、オーバーヒート寸前のエンジン。心身症の鳥って自分の体を血が流れるほどくちばしで傷つけるんだって、そういう気分。たぶん、生身の自分確かめたいから。助けて、月に一度憂うつなホルモンが過剰分泌する。真っ白な風景の中をボーッと歩いている感じ。忘れ物思い出すみたいに、アー死なないと……。アレルギーとか喘息とかいう体質あるでしょ。死にたがりやの体質なのかもしれない。マゾヒスティツクに死に際の快感求めているのかもしれない。
「幼児体験っていうでしょ。ぬくもり感じたことない子って、どっかでひんまがってしまうのかしら」
「正直、君の事分からないし、受け止める自信もない。でも瀕死の状態には見えないし、助けを求めてるわけでもないだろう。君は自分という杭に頑丈に繋がれている」
 そうなのかもしれない。私は私から逃げることができない。シンデレラのように王子と結婚するよりも、マッチ売りの少女のように野垂れ死にしたい。気がつくと、自分を痛めつけて生きていることを確かめるっていうか、そういう濃縮ジュースみたいな瀬戸際の快感味わうっていうか、こういうの異常?
 洋司は哀れむように私を見た。
 どんよりとした夕暮れの道を歩いていると、目の前にある空間が行き止まりの壁のように迫ってくる。ふと身体が軽くなり、周りの景色が絵画に見えてくる。合成の画面にはめ込まれたような居心地の悪さ。
 異常、正常、異常、正常、足を交互に出すたびその言葉が聞こえる。

 あの人たちはいつも細胞のように群れて、仲のいい家族ごっこをしていた。時々知恵遅れや、肢体不自由児の施設にボランテイアと称して出かけた。
 川を渡った山合いにコロニと呼ばれる真新しい施設があった。雨上がりの日曜日だった。黒い傘を持った洋司を先頭に五・六人の男女が繋がり、私は一人はなれてついていった。
 陽気な会話がはじける中、なぜか洋司はうつむきかげんに背中を向け、傘を振り回していた。
 赤い屋根、クリーム色の壁の建物に光があふれ、子供の声が聞こえた。
 職員の女性に案内され、オムツをたたんだり、繕い物をしたり……後は子供たちと遊んだ。
 子供が持ってきた絵本(狼と七匹のコヤギ)を読み始めたら、一人、また一人と小さな顔が集まってくる。子供たちの視線が絵本ではなく私を見ている。
 本当に悪いのはね、コヤギを食べる狼じゃないのよ。優しそうな顔でお話しているお姉さんが悪いんです。
 気分は、お腹に石ころを詰め込まれた狼のように重苦しい。
 どうしてこんなことをしているんだろう? 洋司のそばにいたいから。そう思うと、あの子達を見ることも触ることもできない。
「奉仕するって気持ちのいいこと?」
 私、気持ちが悪い。
 裸の王様の子供みたいに、本当のことを言っただけ。
「よし乃って、どうしていやなものの見方するの」
 誰かが言った。
 洋司の顔を見ながら、外へ出た。
 子供がブランコをこいでいた。私はしゃがんで見ていた。
 ずうっと昔、小学生になったぐらいだと思う。ブランコが好きだった。だからいつでも乗れる自分だけのブランコが欲しかった。
 ブランコは大きく揺れた。首をのけぞらせると逆さまな景色が近くなったり遠くなったり、目をつぶって思いきりこぐと風に乗っている感じがした。
 よちよち歩きの子供が来ているのに気づかなかった。
 わたしのブランコよ。来ないで。
 子供はまっすぐ走ってくる。
 危ない、ぶつかる。
 子供が勢いよく倒れた。ブランコがキーキーと悲鳴をあげた。
 どこからか母親らしいひとが駆けつけた。
 ごめんなさい、ごめんなさい、あぶないって何度も言ったのにこの子聞かないから。
 母親は子供を抱き上げた。子供の顔から流れた血が母親の白いセーターを赤く染めていた。母親は私を避けるようにうつむき、子供を抱いていなくなった。
 後で分かったことだが、あの親子は耳が聞こえなかった。
 それから何年かしてあの親子を見かけた。女の子の額から目の横に赤い傷があった。
 あの子の顔にまだ傷は残っているだろうか? 時々思うことがある。なぜあの母親は逃げるように行ってしまったのだろう。私には分からなかった。

 日はぎらぎら照りつけ、水分をふくんだ重たるい風が揺れる。小さな虫がとびかい、汗ばんだ皮膚に吸い寄せられるように止まった。人差し指にとって、目の前に持っていくと、透き通った羽がわずかに揺れていた。
 芽吹いたばかりのような薄い緑色の虫は、髪の毛と見間違う足をの字にして立っている。なぜか、そのかたちにうっとり見惚れていた。
 赤い屋根の建物を振り返り、振り返り、そのまま一人で帰った。
 それから、教会に行くこともなく、洋司と会わずに十数年の年月が過ぎた。

 スクランブル交差点を横断しているとき、背の高い男にぶっかった。男はすいませんと言いながら紙袋を拾った。黒縁の眼鏡をかけ、不精髭をはやし、髪の毛の後ろが立っていた。なんだかおかしいのを我慢して、ありがとうと言おうとして、あっと声を上げた。男も一緒にあっと言った。
 信号が赤に変わり、一斉にクラクションが鳴り、慌てて歩道に乗った。
 どこかで会ったことありますか?
 男の言葉に少しとぼけて、
 たぶん、会ったことあると思います、と言った。
 路地に入って、名曲喫茶のドアを押した。暗い室内に流れるオルガンが、まるで年月のひだを奏でているような気がした。
 なんだろう? このアンバランスで未消化な響きは。空間が崩れていくみたい。
 洋司は紅茶を頼み、私はコーヒーを頼んだ。
「思い出せそうだけど、ひどく懐かしいんだけど、出てこない」
「私、そんなに変わったかしら」
「もしかして、名前が思い浮かばないけど……。変わった、変わった、君、よし乃だろ。君、昔もっとふっくらしてて、それに、なんだかギラギラしてました。綺麗になりましたね」
 少し訛りの残る言葉が、いっそう懐かしさをかきたてた。十年はたっていた。洋司も私も独り者で、
 どうして結婚しないんだ、と聞くから、初恋の痛手を忘れられなくて、オールドミスになりました、と答えた。
「洋司さんは、どうして結婚しないんですか」
「……うーん、十年前の失恋の痛手が、癒えなくてだ」
 洋司は、不精髭の伸びた口元をほころばせながら言った。

 ヒロは寝ている。深く寝ている。もう鳴きはしないだろう。
 曇りガラスのような空に、薄日が差している。昨日はすごい嵐だった。風と雨、それに雷……。空き地の柿の実はほとんど落ちてしまった。
 どうして私が生きていて、洋司が死ぬわけ。おかしいわよ。何かの間違いよ。
 私は目を開けたまま、一夜をあかした。
 壁を隔てた隣の部屋から泣き声が聞こえた。そう、泣き声だと思ったの。男の声が聞こえた。あれが女のよがり声と知った時、何故だか哀しくおかしく、消えてしまいたい気がした。窓や壁を打ちつける風のうねりが身体の中にも渦巻いた。
 お隣さん、不幸を少しお裾分けします。珍味で味わいがありますよ。
 あたり前のことだけれど、忘れていることってあるでしょ。たとえば引力があること、四六時中感じている人なんていないわよね。当然、人が死ぬものだなんて意識して、せっせ生殖に励んでいるわけじゃないでしょ。そのてん、虫や魚の生殖は命懸け、だから淫らな感じがしないのかしら。
 私、涙もろくなってしまって、感情をコントロールできなくなると、じわーって鼻の辺りがしめっぽくなるけれど、涙が出ない。体の中の分秘物の調節がおかしくなってるみたい。涙が出ないって、こんなに大変だと思わなかった。目が乾いて、充血して開けていられない。感覚器って一つおかしくなると、繋がっているみたいで、みんな少しずつ狂ってくる。
 隣の女は男を待っている。朝から晩まで待っている。平安朝のお姫様みたいに。そういう女って不思議に思えた。昆虫の雌がフェロモンを出して雄を誘うように、匂いを感じさせる女の人って、いるみたい。
 以前、女は気紛れに私の部屋を覗いては、ひとしきり身の上話をしていった。一週間も話し続けると種もきれ、女はもったいぶりながら男の話をする。日増しに、話の中身が鄙猥になり、嫌な笑いかたをする。
 そうそう、あなたの所に来る、あの背の高い真面目そうな人、どうしたの。最近見ないわね。

 ヒロは寝ている。顔を上に向けて寝ている。
 柔らかい羽は剥製のように薄汚れている。死は命だけでなく、もっと多くのものを奪っていく。
 私の重量は減らないけれど、体の中の空洞は広がっている。
 強ばった手を開いて、ヒロの感触を思い出す。
 老女の指のような皺だらけの足は、不思議なくらい温かかった。私の冷たい手は、ヒロの温もりを感じるだけで嬉しくなった。
 ヒロの目には、綺麗にカーブした睫があった。その睫が少しだけ震えていた。上目蓋と下目蓋というのだろうか、すっとあわせると体を脹らませ、まるまった。ヒロの瞳は黒目だけで、ガラス玉のように光っていた。その目で見る色や形は、私が見ている世界と同じものだろうか。
 ピンクの鳥籠の中にヒロは寝ている。体を一生懸命撫でてやったとき、睫がすこしだけ震えたような気がした。ヒロは今、静物画に入りこんだように、違う世界に行ってしまった。
 この数日間、固形物が喉を通らなかった。ただやたらに喉の奥がべたついた。水道の蛇口をやっとの思いで回し、コップに水を入れる。白く濁った水が勢いよく溢れる。震える手でコップを持ち、口に持っていこうとして、コップの中で小さな気泡がグルグル回っているのを見る。
 体の中には水がある。足にたまった水は、少し黄色くて、重い水。なめたら、しょっぱいですかって聞こうとして聞けなかった。
 ぬるくて、濁った水は、おもたるい空気みたいに、食道を流れていく。しまいに、飲み込むことが困難になり、息が詰まる。
 コップの水で、溺死するのではないだろうか。どこからともなく、恐怖感がわく。
 息が止まって、心臓が止まったら、体のどこから死にはじめるのだろう。
 死ぬという字を、辞書で引いてみた。
『息が絶えて、命が無くなる』
 簡単な答え。無くなるって、どういう意味。命は、どこへいくわけ。可笑しくて、笑ってしまった。
 
 ヒロ、起きて頂戴。さよならを言って頂戴。
 ヒロがまだ毛も生えそろわない頃から、繰り返し教えたんだもの。
 シナリオは出来上がっていた。白い壁、白いカーテン、ベットの上に眠った白雪姫じゃなくて、魔法使い。青い鳥が鳴く。
『さようなら、さようなら』
 笑って頂戴。醜い魔法使いは、いつだって死ぬのよ。
 私、透いて見える影みたいにね、身動きしないでいるの。
 ガラス窓を通して白い空が広がっている。白いだけの空って、人の心を映した鏡みたい。一体この空のどの辺まで視覚に収めることができるのだろうかって、漠然と思ってみると、恐ろしいような気になる。
 人の身体ってどうなっているのかしら。私の身体、私の意志で動いてくれない。今朝は特に熱っぽくて、骨がこわばって、ずんずん沈んでいく感じ。痛い痛い痛い……。『もろ人こぞりて』の替え歌で歌った。その後ドドダム回も痛いと言った。
 寝たきりは、大気の重みを感じやすい。それでも道路や草原なんかよりは、いいかもしれない。やっとのことで身体を起こすと頭がグルリと回って、眺めのいい所にいる感じがする。
 今日がいつなのか、あれから何日過ぎたのか、わからない。私はベッドの上に坐りながら、南がわの窓を見ている。
 木々がざわめいている。重なった屋根と屋根の向こうに細長い空き地が広がり、数本の柿の木が見える。背丈が低くひょろりとした柿の木は、降り続く雨で葉を落としている。その落葉が重なり合い、黒っぽく堆積している。骨ばったような黒い幹が悪魔の指先のように広がり、先端に青い柿の実をつけている。

 洋司の書きかけの手紙を読んだ。鉛筆で、力なく並んだ文字。
『軽くなったような気がする。人の身体にこだわらなくてもよくなったから。治ったとしても、満足な身体にならないだろう。せめて立って歩くことができたら、よし乃に会いたい。よし乃が変形していくたび、小さな身体の小さな顔の強い目線を受けるのが切なかった。哀れみでも同情でもない。生きてあるものの不条理。よし乃を見ていると、食うこと、寝ること、セックス。そういった本能から一番離れた所に連れていかれる。マングローブ。人は死ねば植物になるのだよ。
 植物は生産者、動物は消費者。植物の光合成でブドウ糖ができ、その炭素化合物をエネルギーとして動物は生命を維持している。人が死ねば死体処理の分解者、バクテリアが二酸化炭素と水にしてしまう。そしてそれを養分にして植物は育つ。だから木を植えることは、生き物が共存するためにとても大事なことなんだ。
 僕は幸せだ』
 そこまで読んで、おかしくてたまらなくなる。
 ふふふ……死んだら二酸化炭素と水。
 この手もこの身体も。あの人もあの人も……みんな。今、私の身体から出ている息と同じものになってしまう。
 誰でもそうだ。虫だっで犬だっで、クレオパトラにナポレオンだって。
 気分が楽になってきた。死ぬっていうこと、そんな辛いことでもないみたい。
 焦って死ぬ程のことでもないよ。早く手に入れなければ、死が逃げていくわけではないんだから。
 洋司の声がそう言っているようだ。
 
 意識が薄れていく。夢現つのまま、身体が浮き上がり、風を感じている。太陽の眩しさに驚き、空の下に広がる山の稜線、木々を見ている。
 外は秋の気配。残った柿の実が日毎にふくらみ、彼岸花の咲いた道に稲の穂が揺れている。木の葉のそよぐ音が聞こえる。おいでおいでをするように揺れる細長い葉が、話しかける。
 知っている。彼岸花の根には、毒があるのよ。そう言いながら、こっそり根を食べている人がいるの。
 あれは非常食のなごりよ。自然食ブームで、ドクダミ、タンポポ、なんだってひっこ抜いていくんだから。
 木や草の、たわいもないおしゃべりを聞きながら、幸せな気分になる。もしかして、私の心、身体の中から抜け出た息に、ほんの少しまじって、彷徨っているのかもしれない。
 路地を抜ける。畑のなかに一つだけ残されたキャベツに、白い蝶が遊んでいる。
 アスファルトの道が曲がった所、古い板塀の家の犬が吠える。
 
 柿の実がぼとりぼとりと地面に落ちている。あの柿の根元にヒロは埋まっている。
 私がいつも見える所、とボランティアのKさんに頼んだから。ヒロはいま、土の中でバクテリアに分解されている。もう骨になったかしら。
「Kさん、リンゴ売ってるかしら」
「今は、なんだって売っていますよ」
「そう、じゃあ、リンゴ買ってきて頂戴」
 週に三度、Kさんに林檎を買ってきてもらい、種を取った。おおぶりのお茶わん一杯にするには、大変だった。Kさん、不思議そうな顔をして、リンゴ屋さんでもするんですか。
 むかし、何かの本で読んだのを思い出した。リンゴの種には毒があるのよ。青酸を出す有機化合物が。
 茶わんに盛られた種を見ながら、ため息をついた。どういう料理法がいいだろうか? 乾燥させて、柿の種なみに、ぽりぽり食べてしまおうか。それとも、ミキサーでリンゴの種ジュースにしようか。
 マンガみたいね。そう思いながら、一人で笑い。笑うことが恥ずかしいような気がして声を殺す。
 今の私の仕事、一つずつ整理すること。もう着れもしない洋服をしまっておくのはよそう。靴もハンドバックも、必要ない。Kさん、バザーとか処分の方法考えて頂戴。まるで幸福な王子ね。
 ワンルームマンションから、匂いが消えていく。匂いに敏感になりすぎて、匂いのするものが厭なの。食物、体温、人の息。入浴できないから、アルコールで体を拭くの。いっそのこと、アルコール漬けになってしまいたい。
 Kさんに足を拭いてと言うと、Kさん、息を吸い込まないように止めているのが分かるの。どうして生き物って臭いんだろう。いまって芳香剤ブームでしょ。トイレの匂い、ペットの匂い、汗の匂い、お口の匂い。次は病人、老人の匂い消し。
 Kさんが言う。
「今年は雨が多くて寒い夏でした」
「昔みたいな、太陽がガンガン照って、うるさいぐらい蝉の声が聞こえて、ほんとうの夏らしさってないわね。今年は蝉の声も聞かないわ」
「道路とか、ここの階段なんかにも、蝉がころころ死んでいます。蝉って土の中に何年もいて、地上に出て、二・三週間ぐらいしか生きないって、子供が言ってました」
 そう、と言いながら、茶色くひからびた蝉が、腹をだして死んでいる姿を想像した。
 蝉の体は軽いだろう。死体も臭くないだろう。もしかして、人間がころころ死んでたら、始末におえないもの。
 
 雨雨雨の次は乾燥続き。私の骨は湿って乾いて、きしんでいる。
 夕日が奇麗な季節になってきた。真っ赤に燃えた太陽が沈んでいく。
 太陽はいい。毎日、あんなに燃え上がれるから。私はもう、身体の中の燃える気体もかすかすで、燃しても、ものの数分。今は綺麗に死ぬことだけを考えている。最後の柿の実が落ちて、黒い幹だけになる頃には……。
 深夜、ドアに止まって、蝉が鳴いていた。
 蝉って、夜なくのかしら?
 そんなことを思っていると、泣き声が止まって、ぽとりと落ちる音を聞いたような気がした。
 そうやって、誰にも知られず……風に吹かれ、土に混じり合って、死ぬのがいいなあ。


一九九〇年一月(えん七号 発表)