夜明けに鳩の声を聞いた


 ホーッホホー、ホーッホホー。
 うっすらと意識が目覚めていた。闇の色が白々とした朝の空気と混じっている。昨日までのあのもわっとした暑さはどこへ行ってしまったのだろう。見えない無数の水滴が、じっとりと体の周りを覆っている。
 鳩の声を聞いたような気がした。
 千根の網膜に、花柄のワンピースが映った。
 母が出かける時はいつもそれを着ていた。キャラコの生地は日が当たると黄ばんで見えた。
 千根は半分目覚めた頭で母の顔を思い浮かべる。どうしてなのか、母の顔がない。
         *
 銅金色の太陽が落下する。辺りは黄昏色に染まる。
 千根は家に走った。ガラス戸を引いて「ただいま」と言い框に上がる。
「お母さん、お母さん」障子戸を開けようとして戸惑った。
 母はいないのだろうか?
 千根はぼんやり立っている。夕暮れの妖しい気配と母への得体の知れない思いが混じって、不安でいっぱいになる。
 母は、鬼になっているかもしれない。鬼女、赤い口が耳まで裂け、目が釣りあがって……。
 母がいた。背中を向けてぼんやり窓の方を見ていた。窓ガラスに母の顔が映っていた。
「お母さん、お腹すいた」
 母は黙って立ち上がった。
 包丁のリズミカルな音が響いた。油の焦げる匂いがした。母は皿の上に焼き飯を載せて卓袱台の上に置いた。
 千根は スプーンでご飯をかきこみ、水を飲んで流し込んだ。
「もう少しゆっくり食べられないの」
 母の顔には苛立ちがあった。
  チャーハン嫌いなんだもの。……その言葉もついでに飲み込んだ。
  母の顔はできそこないの福笑いのようにどこかおかしい。顔の中の目が光って、千根を見ている。
「お母さん、一生のお願い。だめって言わないで」
「なあに」
「だめって言わないでよ」
「聞かないと分からないでしょ。なあに」
「あのね、飼いたいの」
「なにを」
「鳥、インコ、いいでしょ。鳥ならいいでしょ」
「だめよ。生き物は千根だけでいい」
「どうして? どうしてだめなの」
「生き物は玩具じゃないのよ」
 母は背中を向けて、大きなため息をついた。
「勝手だよ。大人って勝手だよ。勝手に子供作ってさ、生き物は玩具じゃないなんか言って……。私、兄弟が欲しい。お母さん、頂戴よ。妹か弟、頂戴よ」
「少し黙ってて。お母さん頭が痛い」
 母は立ち上がって、襖をぴしゃりと閉めた。
 柱時計が、ボーン、ボーンと七回鳴った。
 どうして? わたし何か悪いことした?
 暑くも寒くもなかった。膝を抱えてぼんやりしていると、足がひどく白く思え、じっと見続けると自分の足じゃないような気がした。反り返って天井を見上げると、板目模様が恐いものに見えた。
          * 
 母が死ぬ夢をよく見た。
 千根は家のそばの空き地で寝そべっていた。少し風があって、白い雲が流れていた。どこからか声が聞こえた。
 なんていう子かしら、あんたの母さん死んだのよ。
 千根は家の中にいた。家具が一つもない四角い部屋に蒲団が敷かれていた。蒲団は人の形に膨らんでいた。白い布を被った顔は日の光を浴びていた。
 こんな気持ちのいい朝に、母が死んだ。
 天井の節目を光の模様が遊んでいる。
 千根は汗ばんでいた。目を開けて、しばらく動かないでいた。もう一度目をつぶると夢の続きが始まりそうで恐かった。黙って天井を見つめていると、胸が熱くなった。
 母が死んだらどうしよう。
 千根は、白い布を取り、母の顔を見た。母は眠っているように見えた。顔を近づけると、母のぬくもり、母の匂いがした。それなのに、母は揺すっても動かない。鼻を手で覆っても息が漏れてこない。
 命って、勝手にさよならって行ってしまうもの。命がなくなった瞬間から、体中の細胞の一つ一つが腐り始める……。
 夢ではないか。何を馬鹿なことを考えるんだろう。
 襖を開け、母のそばに行く。母の寝息を聞く。
「お母さん、お母さん、お腹が痛い。痛くて眠れない」
 母は起き上がって薬を探した。
「おかしいね、何か悪いもの食べた」
 千根は母の顔を見、声を聞いて安心した。体の中いっぱいに張り詰めていたものが消えた。
          *
 虫の澄んだ声が空気を震わせ、辺りに木犀の香りが漂い始めた。
 夜更けに戸を叩く音がした。男の声がした。夢現のままに母と男の声を聞いたような気がした。
 夢の続きだろうか? 千根は井戸の底のような深い場所に居た。見上げると、はるか遠くに天窓があった。そして底から一つの目が覗いていた。片方だけの巨大な目は爬虫類のようだった。
 戦慄が走った。お酒の匂い、それと煙草の匂い、ふと父のことを思い出す。ざらりとした感触が襟首にしのびよる。目を開けるのが恐かった。開けるまい、開けるまいと思うほど目蓋が痙攣した。
 千根の顔の上に、充血した大きな目があった。
「お母さん」
 千根は飛び起きた。男は濃い睫毛に縁取られた目を見開いていた。
「誰、誰なの」
 白い、少し上気した顔の二つの目は瞬きもしない。千根の憎しみの視線を受け、男は歪んだ笑いを浮かべた。
 男は出て行った。千根の動悸は治まらなかった。目をつぶると、男の目がどこまでも広がって何もかも飲み込んでしまう。
 何なの、あの男は? 何なのよ。
 夜明けに鳩の声を聞いた。
 千根はその声を聞くと立ち止まってしまう。混沌とした霧の中に立っている自分を感じる。
 眠れない夜が続いた。密集した闇の色に目を凝らしながら、誰かが忍び寄ってくる予感に怯えた。千根は母のそばに行った。母の白い顔を見ながら呟いた。
 お母さん、あの男は誰。あの男がどこの誰なのか知りたい。どうしてだろう、あの男のことを口に出すのが恐い。
 それに、と千根は思う。
 お母さん、私の中に悪い虫がいる。ぐじゅぐじゅ嫌な匂いを出している。私、自分のこと裏返しにして、天日に当ててカラカラにしてやりたい。
 お母さん、嫌なんだよ。体の中がね、血と肉でいっぱいなこと考えると、吐いちゃいそうだよ。
 お母さん、私お父さんに似てる? お父さん、ヤクザなの? お父さん刑務所に入ってるの? チエちゃんがそう言うの。タカちゃんも、遊んじゃいけないってお母さんに言われたんだって。
 母の顔が動いた。千根の顔を見てかすかに笑った。
「どうしたの、千根。今日はどこが痛いの」
 胸の中に張り詰めていたものが消えていく。どうしてだろう? 母の顔を見、母の声を聞くだけで体の中が明るい色になった。
         *
 中学生になった。千根は母より背が伸びていた。
「お父さんそっくり、気性の激しいところもね」
 母はそう言いながら制服姿の千根を見た。
 実験室の中だった。千根はいつになく胸騒ぎがした。戸棚の中には、三角形や平べったいのやガラスの容器が並んでいた。黄色いホルマリン溶液の中に、死んだ細胞が沈んでいた。
 あかるい光が差し込んで、千根の体を半透明にした。戸棚のガラス器が輝いている。白衣を着た教師の白い長い指が、黒板に伸びていた。
 千根は窓の外を見た。海のそばの小山を切り崩して建てた校舎は、風が吹くと砂埃が舞った。抉り取られた断層が見えた。赤い土は、何かの肉体をぱっくりと割ったような生々しさがあった。細い木が一本あった。その木の枝に、丸い鳥の影を見た。千根はふと、あれは山鳩かもしれないと思った。
 鳥が飛び立ったとき、千根は席を立っていた。
「桐山、どうした」
 千根はくるりときびすを返し、教室の外に出た。コンクリートの渡り廊下を通り、非常出口から校庭に出た。そしてまっすぐ歩いた。
 どうしたというのだろう。目の前がかすんで、息が詰まって、我慢しよう我慢しようと思うほど、叫びだしそうになった。
 行く当てもないまま、時々寄り道をする丘に行った。そこは光と風のある場所、『光風園』と呼ばれていた。伸び放題の雑草の向こうに古い家屋があった。その家には気違い女が住んでいるという噂があった。人の気配のない家の、何枚も連なったガラス窓がキラキラ光った。千根はそのガラス窓のどこからか、女の目が覗いているような気がした。
 風が吹くと、木々が騒いだ。キンコンカンコン……チャイムの音が聞こえた。千根は教室の自分の机を思った。
 羽虫が飛んでいた。級友の視線や言葉が絡みつくようで鬱陶しかった。千根は羽虫を手で叩いた。手のひらについた羽虫の潰れた姿を見ていた。
 大きく息を吸うと、肩の力が抜けて体の中で騒いでいる血が鎮まっていった。そうして数時間、景色の中に溶け込んだようにじっとしていた。風の感触、光の色合いが千根を取り囲んで時を打っていた。
 人の声がした。若い男と女だった。『チクショウ、何で私の場所に来るんだよ』千根は居心地の悪さを感じて立ち上がった。
 斜面の獣道をズックで滑るように落ち、そして走った。
 河口にかかる鉄骨の橋は、海風を浴びて赤錆ていた。家の近くの路地にさしかかる頃、辺りは暗く なっていた。すれ違うおばさんが何か言ったような気がした。自転車に乗って通り過ぎた男が振り向いた。千根は自分が走っているのではなく、自分以外のものが後ろに流れているような気がした。
 薄紫に染まった風景は生暖かく、怪獣の内臓の中に居るようだった。路地を抜けて、家の前に来た。千根はしゃがみこんで、息を抑えた。
 引き戸はぴたりと閉ざされ、明かりも漏れていなかった。
 母はいないのだろうか?
 千根は牛乳箱の中から鍵を取り、家の中に入った。
 母はいないのだ。どこへ行ったのだろう。
 上がり框に座り込んだ。網目のような闇が取り囲んでいた。
 母は私を捨てたんだ。もしかしたら、いつかのあの男と逃げたのかもしれない。
 千根には分からなかった。ただくらい闇を見つめながら、その闇よりも数倍も暗いものがお腹の中に溜まっていった。
 どれぐらいのときが過ぎたのだろう、担任の教師が千根の前に立っていた。
「桐山、どうしたんだ。黙って帰ったりして」
 ホルマリンの匂いしかしないと思っていた教師から、煙草の脂の匂いがした。
 あの男の匂いだ。身近な男の気配に千根は体を固くして黙り込んだ。
 母は本当に消えてしまった。そんな予感はしていた。
         *
 町の中央を川が流れていた。その川が大きく蛇行し、海に注がれていた。
 千根は父の住む南の町に移り住んだ。
 同じような夢を繰り返し見た。暗く深い穴の中に落ちていく夢、ああああ……と続く悲鳴も続かないほど果てしなく、内臓が締め付けられ切れ切れの吐息さえなくなり落ちていく。そして誰かの視線を感じる。
 体中に汗が吹き出ていた。目が覚めても夢の中にいるようだった。
 母はどこにいるのだろうか? 自由になれて仕合せなのだろうか?
 母が千根だけを見ていないのは知っていた。それでも千根にとっては一番大切な人だった。母を恨むつもりはない。けれどいつかのあの男の顔や目を思い出す。千根の体の中にあるぐじゅぐじゅとして気持ちの悪いもの。到底言葉で言い表すことができない、宇宙の闇より底知れず暗いもの。その正体不明の感覚が広がる。
 粘りつく汗が冷えて、体中の毛が逆立っていた。
 ホホーッ、ホホーッ。ホホーッ、ホホーッ。
 映像の切れた白いスクリーンに、山鳩の声が広がった。千根は口を細くすぼめて息を出す。
 はじめの音は出る。その次に続くトーンの高い音が出ない。ふと、鳩はメッセージを伝えようとしているのではと思う。
「お母さん、ホホーッ、ホホーッって鳴くのは何?」
「山鳩よ。番の鳩が高い木の天辺で挨拶してるんだよ。なんて言ってるんだろうね」
 子守唄のような懐かしいものが胸を熱くする。千根は見えない鳩の姿を想像した。
 黒い点描の中、黒い幹に止まった鳩はどろっとした目をしてお腹を震わせているのだろうかと思う。
 不思議な声だと思った。たった一つのことしかいえない鳩は、その一言で何かを言おうとしている。
 ワタシは淋しい。ワタシは哀しい。
 もし千根がたった一つの言葉しか持たなかったら、なんと言うだろうか? 
 私は憎い。何が憎いの? わからない?
 千根は鳩の姿を思い浮かべていた。
 千根の知っている鳩は、神社や公園に群れていた。鳩は餌を探して二本の足で歩き回っている。羽はいろいろな色を集めて嫌な光沢を放っている。目はプラスチックのように空虚だ。
 鳩の群がるところは乾いた埃の匂いがした。匂いの層の中に羽が舞った。
 山鳩が鳴いている。突然鳴き始めて突然に鳴きやむ。千根の中でも何かが止まってしまう。薄っぺらなカンバスに閉じ込められた奇妙な空虚感。
 遠い向こう側で、誰かが呼んでいる。
 父の声だ。太く低い声が響いた。
 千根は二階の窓から屋根の上に下りた。鳩小屋の中は乾いた羽の匂いと糞の匂いが混じっていた。
 なぜだろう? 生き物は匂いがする。生き物には無数の穴がある。目の穴、鼻の穴、口の穴、毛穴……空気の漏れる穴から匂いが出ている。
 千根は、鼻から咽、気管へと入り込んでくる匂いをこらえながら思っていた。
 女には女の匂いがある。男には男の匂いがある。父の匂いは煙草の匂い。母は、白粉の匂いなのだろうか、金木犀の甘い香りがした。
 千根は自分の体から出ていく息が、嗚咽のように切ないと思った。
「水やったか」
 父の大きな体があった。浅黒い顔が見えた。千根は一瞬体をそらしていた。父と暮らし始めてまだ数ヶ月だった。千根は、ほとんど記憶にない父が恐かった。父がヤクザということのため、どこへ行っても冷たい視線を感じた。それでも千根が生きていく場所はここしかなかった。
 千根の日課は鳩小屋の掃除と餌をやることだった。
 鳩は、まだ光の差し込まない小屋の止まり木に止まっていた。えさ箱にとうもろこしと麻の実を入れた。鳩は羽をばたつかせ首を振って餌をついばんだ。千根はじっと鳩の様子を追いながら、哀れみと軽蔑がない混ぜになっていくのを感じた。
 手がないというのは奇妙な姿だ。鳥は手の代わりに翼を与えられたのかもしれない。空を飛ぶ鳥は綺麗だ。家とか家族とか関係なく、命だけを持って滑空する様は劇画のヒーローのようにかっこいい。それに比べて、人に飼われ飼育箱の餌をあさる鳥は不様だ。
 馬鹿な鳥、アンタに手があったら面白いわね。羽の下から出してみたら、餌を手でつかんで食べてみたら。
 もし神様が、手の代わりに翼をくれるといったらどうするかな?
 千根は、馬鹿げた想像をして悩んでいる自分に気づいておかしくなった。
 食欲を満たした鳩は、出っ張った胸をいっそう膨らませ、止まり木に止まっていた。鳩小屋の狭い空間に白い羽毛が漂っていた。
 鳩が動き始めると、運動の時間だった。千根は鳩を持つのが嫌いだった。あの生暖かい動悸が手に伝わると躊躇した。鳩はそれを察したようにばたばたと暴れた。
 後ろからしっかり羽を押さえて持つんだ。父の言葉を思い浮かべながら、収拾のつかないものを押さえ込んでいる気がした。鳩は気が違ったように羽をばたつかせる。
 千根は鳩を高く持ち上げて手を離した。
 どこへでも飛んでいきな、帰ってこなくていいのよ。
 鳩は、瞬間羽をばたつかせ、ふうわりと空に舞い上がった。
 空は青く澄んでいた。義眼のような鳩の目に、空は何色に映るのだろう。空はどこまで続くのか、鳥はそれを見届けようとは思わないのだろうか?
 千根は餌箱のアルミの容器を持って、そばの電柱を叩いた。
 カンカンカンカン……。
 音が青い空に吸い込まれた。鳩は鳩舎の上を旋回し、空の隅に消えていった。鳩の消えた空に飛行機雲が線を引いていた。
 千根はなるべく父の顔を見たくなかった。逃げるように家を出た。日は高く上り、散らばった石ころが影を落としていた。道の端に伸びた雑草が朝露を乗せて光っていた。千根は海沿いの道を回って、農家の牛舎の脇の道を通って、光風園に行った。その道を通ると、制服を着た誰とも顔をあわせることがなかった。
         *
 入梅が終わって、空は垢抜けたように鮮やかな青色だった。千根は教室の窓から外を見ていた。木の先端と空とさまざまな形の雲が見えた。空は一刻一刻表情を変えた。
 大気に圧されているのを感じる。青い空と鉛色の空は重さが違う。
 人の体にかかる重さも違うのかもしれない。山鳩が鳴いている。
 ホホーッ、ホホーツ。ホホーッ、ホホーツ。
 千根は視野が狭くなっているのを感じる。級友たちが部分的にしか見えない。太った胴体。肉付きのいいふくらはぎ。
 千根は強い視線を感じる。誰もが千根を避けようとしているのに、百合子はどうして自分のことを見るのだろう。
 百合子は心臓の病気を持っていて、学校を休みがちだった。
「一緒に帰っていい?」
 百合子はにっこり笑った。唇が薄く伸びて白い歯が光った。千根は綺麗な笑顔だと思った。百合子は背がすらりと高く、病気のせいなのか体の厚みがなかった。色白で、目、鼻筋が細くさっぱりした顔立ちをしていた。
 千根の後ろについて来るのに、どうしても千根と肩を並べることができない。
「千根さん、待って。待ってちょうだい」
 立ち止まった千根の手を握ると、薄い胸に当てた。心臓の鼓動が気持ち悪いぐらい伝わった。瞬間、鳩の感触を思った。千根はもぎとるように手を引っ込めた。
「ごめん、ポンコツの心臓触らせて」
「体の中に時計があるみたい」
「フフ、私の鼓動やたら早いから、時間も早くすぎるのかな」
 百合子の頼りない肩の線、細い首筋、『夕鶴』のつうみたいだなと思いながら言う。
「鳥って体の中に時計があるんだって。太陽と星の動きで、どこにいるのか、どこに行くのかわかるんだって」
 百合子の切れ長な目が光っている。千根は空を見上げる。黒い鳥の影が見える。
「千根さん、鳥っていいわね。私も鳥みたいに感じたい。自分がどこにいるのか。どこに行くのか」
 畑が広がっていた。紫がかったキャベツの葉が整列していた。
「私、青虫みたいよ。キャベツの葉っぱ食べて生きてる。一番外側の葉っぱジュースにして飲むの。生臭いのよ。分かるのよ。キャベツのエキスが体の中通るの。だから私の血は緑色だと思う」
 光を浴びた百合子の顔は透けるように白く、静脈が見えた。
 千根は思っていた。自分も緑色の血ならいいと。
 図書館で見つけた画集を何度も見た。画家は自画像に固執していた。
 サリドマイドのよじれた細いからだ。不釣合いな大きい顔。色のない線画の中に苦悩に満ちた顔がある。千根はその顔を見つめた。眼球が赤い。いやな匂いのする目だ。似ている。あの男の目に。
 千根はそのとき、燃え尽きる赤い星を見たような気がした。
「どうしたの? 千根さん」
「星が見えた。死ぬ瞬間の星」
「こんなに明るいのに」
 光風園の草の上に座っていた。気持ちのいい風が肌をなぜていく。ざわざわと葉擦れの音がする。
「風って、大気が揺れてるのよね。草も木も光ってる。この目で見て、感じれるってステキね。千根さん、何か感じない?」
「何かって?」
「ものすごく大きくて、不思議なもの」
「何なの?」
「神様」
千根は笑い出した。
「神様って何? 大きくて不思議なもの? 私、飾って拝むものだと思ってた」
 千根は自分も赤く燃え尽きる星になったような気がして、ジリジリ燻った。そして百合子を破壊したいと思った。
「千根さん、神様は見てるわ」
 百合子はそう呟いた。
        *
 百合子の家は印刷工場だった。黒い鉄の機械。それと同じ色をした木の床を通り、急な階段を上ると百合子の部屋があった。その部屋はくすんだ壁に囲まれた暗い部屋だった。床の間があって人形のようなものが置いてあった。
「マリア様」
 百合子はオルガンのふたを開け、賛美歌を弾いた。
「洗礼受けたの」
「洗礼?」
「神様の愛子になったの。いつでも天国へ行けるのよ」
「良かったわね。天国ってどこにあるの?」
 千根は次第に感情が高ぶってくるのがわかった。
 百合子が言った。
「時々思うの。今いるこの世界が地獄じゃないかって。人って地獄の鬼よりひどいことしてる。本当のところ、神様の子供になった感じしない。誰だってそうでしょ。痛いとか苦しいとかは嫌だもの。助かりたいって思っちゃいけない? 私、千根さんと友達になりたかった。千根さん強いもの。……もうすぐ世界は終わるの。神様が怒ってるから。だから千根さんと一緒に天国へ行きたいの」
 百合子の目が潤んでいる。千根は陶酔した百合子の顔に嫉妬さえ覚える。
「夢みたいなこと言わないで。こんな世のなか、神様なんているもんですか」
 千根の視線は壁を突き抜ける。眼球が乾いている。所詮網膜にやきつく映像さえ歪んだものなのだ。目のレンズと大気のレンズを通して見ているんだから。
 その夜、金色の空間の夢を見た。
 生暖かい肉の襞の中を歩いていた。はるか彼方にほっかりと白い穴が開いていた。あそこが天国だ。
 千根は一生懸命歩いた。疲労が襲ってきた。いくら歩いてもたどり着けない気がして、崩れるように座り込んだ。なんだか奇妙な感じがした。ふわふわ浮き上がる感じだ。それにここには音がない。時間もないのかもしれない。千根はまた歩き始めた。わずかでも意志があるうちは歩こう。何もない空間の中で何もなくなるまで歩き続けようと思ったら、おぼろげな穴が目前に広がっていた。それは誕生したばかりの星のようで、目がくらむほどの白色で、一心に見つめると、何億何兆の微生物が乱舞しているようだった。
「天国へ行きましょう」
 百合子の声が聞こえた。
「さあ、今よ。天国の入り口に入るのよ」
 操られるように身をひるがえしていた。
 真っ白だった。体がものすごい勢いで分裂している。もう自分の形もないのに、何かがもがいている。
 見てみたい。それが自分の正体なのかも知れない。ああだめだ、もう私には目がないもの。
 ホホーッ、ホホーッ。ホホーッ、ホホーッ。
 鳩の声を聞いた。明けきらないうす闇の中で千根は凍えていた。そしてあざ笑うように呟いた。
 神様は詐欺師だ。原子炉みたいなあれが天の国。
         *
 蒸し暑い夜が続いた。千根は夢を見た。
 絶え間なく夢を見続け、夢の中で生きているような気がした。
 夢の中にはいつも母がいた。母と住んでいた家が、家具やつまらない日用雑貨まで浮かんでくる。目覚めると人生の大部分を生きたもののようにぐったり疲労していた。それから夜までの日常は、言葉を発するのも億劫だった。
 千根は起き上がり、屋根の上にある鳩舎に入る。鳩舎のなかの巣ざらで、親鳩は体を膨らませじっとしている。まだ卵はかえっていないのだろう。この何日かその日を待ち続けていた。餌をいれ、水をやる。鳩は首で調子をとるように歩く。毛で覆われていない異質な足はピンク色で四本の指がある。千根はなぜかその足が綺麗だと思う。狭い鳩舎にいながら不思議と解放される。なぜだろう? 鳩の目は何をしようと何を言おうと、嫉妬も猜疑もなく遠いところを見ている。
 階段を駆け下りて外に出る。
 父はこの数日家にいない。千根はこのまま父もいなくなるのではと思ってみる。どうにかはなるだろう。これ以上良くも悪くもならない。そんなことを切れ切れに考えながら歩いていると、白い靴が見えた。
「千根さんに会いたかった」
 川に沿った松林の道を歩いた。高台の赤い屋根の校舎が見えた。
 百合子は学校へ続く長い坂の前で立ち止まった。千根の体を引っ張るようにして海に向かって歩いた。
 潮を含んだ重い風が髪をかき混ぜた。川は海に開くように広がり、あふれる水面が波立っていた。
 百合子は突然立ち止まり、言った。
「千根さん、一緒に死んで」
「どうしたの? 百合子さんの神様は」
「洗礼受けたら、何かが変わると思った」
「変わるって? 天使の羽でも生えてくると思ったの」
「似たようなものね。マリア様かイエス様が私の目の前に現れて、にっこり微笑んで、あなたは救われましたって言ってくれるのかと思った」
「そうだったら信者は増えるわね。自分だけ救われて天国へいけるなんて思いあがりよ。そう思わない。草だって木だって虫だって鳥だって、不平不満言わずに生きてるわ」
 風が下から吹いていた。百合子のスカートが膨らんだ。百合子の白い顔がかすんで見えた。
「私生きたくて生きてるんじゃない。千根さん、前に生きていたいなんて思わないって言ったでしょ」
「百合子さんみたいに綺麗に生きたいとは思わない。私は生きるんじゃなくて朽ちるの。百合子さん本当に死ねるの? 飛び込んでみる? 足から飛び込む? それとも頭から飛び込む? 落ちていくのってどんな感じだと思う。川の水って臭いわよね。鼻や口に水がいっぱい入って、悲しいとか切ないなんて思ってる余裕ないわね。死ぬって綺麗なことじゃない」
 百合子の顔が紅潮している。百合子の澄んだ目が変わっていく空のように翳っている。
 風が強く吹き抜けた。魚の腐ったにおいがした。川の淵に塵が泡と一緒に淀んでいた。
 松林は海まで続いていた。砂地の緩い勾配を上ると、青い光を振りまいた海が広がっていた。たぷたぷと揺らめく海面は何層にも重なっている。空までも続く海は、圧倒的に千根の前に立ちふさがる。
 千根は地面からゆらゆらと立ち上る陽炎のような気がした。死ぬとか生きるとかそういう生生しいものから切り離されて、やわらかい空気のような気分で体の中が膨らんだ。
 派手なシャツがちらついた。男が二人、口笛を吹いた。千根と百合子は黙って通り過ぎようとした。男が近づいてくる。
「遊ばないか」
 千根はふいと走った。千根の後ろで男たちの声が飛沫のようにはじけた。
 体の弛んだ部分が揺れる。その余分な脂肪を振り落とすように走った。頭の中で、男たちと百合子の影が交錯した。
 恥ずかしいとか、憎いとか……そういう気持ちを知ればいい。そしたらあなたは変わるわ。死にたいなんて思わない。生きることに執着するわ。
 走りながら、つなげようもない場面が流れていた。
 母の顔、そしてあの男の顔。母のいなくなったちっぽけな家。たったそれだけのことではないか。
 千根は息が切れて立ち止まった。畑が広がっていた。千根の背よりも高く伸びたトマトが萎びた実をつけていた。
 晴れ上がった空の下の枯れたトマトを見て息苦しさが増した。
 耳元にはっきりと鳩の声が聞こえた。
 ホホーッ、ホホーッ。ホホーッ、ホホーッ。
 見渡しても鳩はどこにもいない。千根は頭の中で呟いてみる。」
 ホホーッ、ホホーッ。ホホーッ、ホホーッ。


一九八九年八月(えん六号 発表)